200俵から8万石に栄進
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成貞は、初代越後長岡藩主・牧野忠成の甥で、上野大胡藩主・牧野康成の孫に当たる。成貞は越後長岡藩の領地と家臣団を分与されて立藩したのではなく、成貞の父である成儀が新恩をもって旗本の召し出しを受けたものである。しかも成貞は、成儀の総領ではなかった(旗本であった成儀の総領家は、後に罪により改易となっている)。笠間牧野家の家祖となる成儀の庶子であった成貞は、はじめ成儀家において捨て扶持を与えられていた。4代将軍・徳川家綱の弟であった綱吉の部屋住み時代に成貞が分家して、その屋敷・神田館に側衆として出仕することになったのが、笠間牧野家の起源である。 牧野成貞の家系が笠間藩主として定着する前の下総関宿藩主・三河吉田藩主時代には、当家が越後長岡藩の支藩に当たるか否かについては議論があった。また、成儀の総領家が改易となったため、当家が成儀家の総領家の名跡を持つか否かも明確ではなかった。 当家は分家してから明治維新まで、信濃小諸藩主や越後三根山藩主の牧野家のように、越後長岡藩から政事上の指導や重臣人事の内諾は受けていなかった。この越後長岡藩と常陸笠間藩が本・支藩関係になるか否かについては、牧野忠敬#忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係にも解説がある。 成貞は綱吉の寵を受け、館林藩の立藩後に御奏者などを経て家老(3000石)となる。やがて、4代将軍徳川家綱に男子がなかったため綱吉が将軍の世継として江戸城に呼び戻されると、成貞には側衆として常陸国内に1万1000石の点在した領地が与えられた。 1680年に下総関宿藩主として城主となる。1681年以降、成貞は将軍綱吉の側用人として14年間にわたって大きな権勢を得た。その間もしきりに加増されて、牧野宗家の越後長岡藩の表高7万4000石を意識したためか、綱吉は成貞の表高を7万3000石とした。 成貞の隠居後、家督を相続した成春が、まもなく加増を受けて三河吉田藩(8万石)に転封となった。これを根拠に、成貞は柳沢吉保に蹴落とされて失脚したのではなく勇退したという意見もある。 1709年に綱吉が死去すると、3年後の1712年には成貞も没し、同年には幼少の藩主、成央に対して、幕府は日向延岡藩に移封を命じた。表高は同じであるが遠国への左遷であった。
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