200俵から8万石に栄進とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 200俵から8万石に栄進の意味・解説 

200俵から8万石に栄進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 23:59 UTC 版)

笠間藩」の記事における「200俵から8万石に栄進」の解説

成貞は、初代越後長岡藩主・牧野忠成の甥で、上野大胡藩主・牧野康成の孫に当たる。成貞は越後長岡藩領地家臣団分与されて立藩したのではなく、成貞の父である成儀が新恩をもって旗本召し出し受けたのである。しかも成貞は、成儀の総領ではなかった(旗本であった成儀の総領家は、後に罪により改易となっている)。笠間牧野家家祖となる成儀の庶子であった成貞は、はじめ成儀家において捨て扶持与えられていた。4代将軍徳川家綱の弟であった綱吉部屋住み時代に成貞が分家して、その屋敷・神田館に側衆として出仕することになったのが、笠間牧野家起源である。 牧野成貞家系笠間藩主として定着する前の下総関宿藩主・三河吉田藩時代には、当家越後長岡藩支藩に当たるか否かについては議論があった。また、成儀の総領家が改易となったため、当家が成儀家の総領家の名跡を持つか否かも明確ではなかった。 当家分家してから明治維新まで信濃小諸藩主越後三根山藩主の牧野家のように、越後長岡藩から政事上の指導重臣人事内諾受けていなかった。この越後長岡藩常陸笠間藩が本・支藩関係になるか否かについては、牧野忠敬#忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係にも解説がある。 成貞は綱吉の寵を受け、館林藩立藩後に御奏者などを経て家老3000石)となる。やがて、4代将軍徳川家綱男子がなかったため綱吉将軍世継として江戸城呼び戻されると、成貞には側衆として常陸国内に1万1000石の点在し領地与えられた。 1680年下総関宿藩主として城主となる。1681年以降、成貞は将軍綱吉側用人として14年間にわたって大きな権勢得たその間もしきりに加増されて、牧野宗家越後長岡藩表高74000石を意識したためか、綱吉は成貞の表高を73000石とした。 成貞の隠居後家督相続した成春が、まもなく加増受けて三河吉田藩(8万石)に転封となった。これを根拠に、成貞は柳沢吉保蹴落とされ失脚したではなく勇退したという意見もある。 1709年綱吉死去すると、3年後1712年には成貞も没し同年には幼少藩主、成央に対して幕府日向延岡藩移封命じた表高は同じであるが遠国への左遷であった

※この「200俵から8万石に栄進」の解説は、「笠間藩」の解説の一部です。
「200俵から8万石に栄進」を含む「笠間藩」の記事については、「笠間藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「200俵から8万石に栄進」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「200俵から8万石に栄進」の関連用語

1
12% |||||

200俵から8万石に栄進のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



200俵から8万石に栄進のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの笠間藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS