忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係
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「牧野忠敬」の記事における「忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係」の解説
越後長岡藩サイドにおいては、養子縁組の前年に忠周と蜂須賀宗員の妹との縁組破棄、忠敬が養子になった後に忠周の実子である忠寛と牧野忠利正室茂姫が誕生すると公式系図上、それぞれ東氏(後に牧野貞長により公式上、貞長実弟)と膳所藩本多氏の娘にするという系図工作を行ってまでして、忠敬の養子縁組及び藩主相続は行われた。 既に享保15年(1730年)9月、幕府に延岡藩牧野家(後の笠間藩牧野家)の嫡子届けを提出した忠敬を長岡藩へ養子に出すにあたり、延岡藩内に論議がおきた。それは当時、大名の嫡子及び長子を養子に出すことができるのは、幕府の定めにより分家から本家に対する場合以外禁じられていたからである。 そして、それは延岡牧野家の成り立ちが、その元祖牧野儀成の子・帯刀成長(旗本3000石)が罪により断絶したが、成長と並行して徳川綱吉に近侍していた弟の成貞(当時旗本2,500石)の大名取立(延宝8年(1680年)10月、1万3,000石)があり、これを新規取立とすれば、延岡藩牧野家は長岡藩の支藩としての成立ではないため、長岡藩は本家ではないとする見方が存在したからに他ならない。 そこで、長岡・延岡の両牧野家親類一同で協議の上、長岡牧野家は延岡(笠間)牧野家の御家本(おいえもと、すなわち延岡牧野家は長岡牧野家の分家の分家)との見解が決まった。これにより、忠敬の長岡牧野家養子入りが決定した(→笠間家譜・元文4年4月28日の項、寛政重修諸家譜・巻第三百六十六などによる)。 なお、幕府としてもこの関係は煩わしいためか、『笠間家譜』では幕府は一応、養子願いは受理したものの、笠間藩主家と長岡藩主家との関係について問い合わせがあったとしている。『御附録』ではその後も長岡藩と笠間藩の見解が統一できず、享和2年(1802年)に、両牧野家の系図とも『寛永諸家系図伝』の記事と相違のあることを追及されたことが記されており、結局『笠間家譜と寛永譜と相違があるけどはっきりしなかった』と「寛政重修諸家譜」で記している始末である。
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