忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係とは? わかりやすく解説

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忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/17 17:12 UTC 版)

牧野忠敬」の記事における「忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係」の解説

越後長岡藩サイドにおいては養子縁組前年に忠周と蜂須賀宗員の妹との縁組破棄、忠敬が養子になった後に忠周の実子である忠寛と牧野忠利正室茂姫が誕生すると公式系図上、それぞれ東氏(後に牧野貞長により公式上、貞長実弟)と膳所藩本多氏の娘にするという系図工作行ってまでして、忠敬の養子縁組及び藩主相続行われた。 既に享保15年1730年9月幕府延岡藩牧野家(後の笠間藩牧野家)の嫡子届け提出した忠敬を長岡藩養子に出すにあたり延岡藩内に論議がおきた。それは当時大名嫡子及び長子養子に出すことができるのは、幕府定めにより分家から本家対す場合以外禁じられていたからである。 そして、それは延岡牧野家成り立ちが、その元祖牧野儀成の子帯刀成長旗本3000石)が罪により断絶したが、成長並行して徳川綱吉近侍していた弟の成貞(当時旗本2,500石)の大名取立延宝8年1680年10月1万3,000石)があり、これを新規取立とすれば延岡藩牧野家長岡藩支藩としての成立はないため、長岡藩本家ではないとする見方存在したからに他ならない。 そこで、長岡延岡の両牧野家親類一同協議の上長岡牧野家延岡笠間牧野家御家本(おいえもと、すなわち延岡牧野家長岡牧野家分家分家)との見解決まった。これにより、忠敬の長岡牧野家養子入り決定した(→笠間家譜・元文4年4月28日の項、寛政重修諸家譜巻第三六十六などによる)。 なお、幕府としてもこの関係は煩わしいためか、『笠間家譜』では幕府は一応、養子願い受理したものの、笠間藩主家と長岡藩主家との関係について問い合わせがあったとしている。『御附録』ではその後長岡藩笠間藩見解統一できず、享和2年1802年)に、両牧野家系図とも『寛永諸家系図伝』の記事相違のあることを追及されたことが記されており、結局笠間家譜と寛永譜相違があるけどはっきりしなかった』と「寛政重修諸家譜」で記している始末である。

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