忠次郎大明神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 23:32 UTC 版)
今日、「義人」として顕彰される忠次郎ではあるが、その行動には首を傾げたくなる点も多い。 一説には数千人とも数万人ともいう一揆軍が集会場としていた竹内村(現・舟橋村竹内)の真宗寺院・無量寺を出陣したのは10月29日夜。この際、忠次郎は駕籠に乗り、麗々しく「忠次郎大明神」と大書した筵旗が掲げられたという。これについて玉川信明は「大明神」なる神号については他の一揆でも使用例があるとしつつも「大体一揆の指導者が駕籠に乗って指導するなど、一揆史上その例を聞いたことがない。反面思わず吹きだしたくなるようなユーモラスなところがあるが、他方では『何を思い上がって……』ということにもなる」と「義人」とされる忠次郎の行動に疑問を投げかけている。 忠次郎の行動にはこれ以外にも「義人」という評価とは相容れない側面が認められる。打ち壊しを怖れる十村や富商からの貢物の献上を受け入れ、酒食を伴う饗応の申し入れにも応じている。泊村(現・朝日町泊)の富商・小沢屋から饗応を受けた際は、小沢屋側は家人ことごとくが礼装して迎え、金屏風を立て廻した席で忠次郎をもてなしている。その様子を目撃した馬場村(現・富山市水橋)の医師・細川玄庵の証言によれば、「その光景はあたかも、一国の君候が来泊しているかのごとき観があった」という。 また、一揆軍は行く先々で掠奪も行っている。これについて玉川は「フランスのプルードン流に言えば、財産なるものはもともと他人の労働を収奪したものであって、それを民衆の側に取り返すことは当然の行為ともいえる」と理解を示しているものの、「義人」とされる忠次郎の行動にそうした評価とは相容れない負の側面があることもまた事実である。
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