忠政の後見人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 05:05 UTC 版)
長可戦死後は各務元正、父通安と共に3人で長可の遺言書を羽柴秀吉に提出。秀吉から各務元正と為忠の両名が森忠政の後見人として指名されたという。 忠政の家督相続後は若年の関武兵衛に代わり高野城代になり、各務元正との2頭体制で忠政を補佐した。為忠は有事の際の軍事を一任されており富山の役、小田原征伐にも忠政に付いて出陣している。九州征伐では眼病で出陣を見送った忠政に替わって森軍の総大将として伴惟利ら甲賀衆と共に九州に出陣。岩山城、戸代城、山崎城、根城坂城などを攻めている。 慶長5年(1600年)に森氏が信濃国川中島移封された後は再び飯山城代となり8000石を領した。また、同年に各務元正が死去したために筆頭家老となっている。しかし慶長8年(1603年)に森氏が美作国津山藩に移封になると直後に井戸宇右衛門と名古屋山三郎が喧嘩の末に2人とも死亡し、井戸一門も忠政の指示によって粛清されるという事件が起こる。この頃、為忠ら林一族は川中島で後任の松平忠輝への領地引継ぎを済ませ美作国へ向かう最中であったが、井戸一族の誅殺に激怒した為忠らは入国せずに森氏を出奔した。
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