2つの世界大戦とコソボ紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 00:08 UTC 版)
「プリシュティナ」の記事における「2つの世界大戦とコソボ紛争」の解説
第一次世界大戦中はオーストリア軍に占領されるが、戦後セルビアの支配に戻る。セルビアは、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国に発展。戦間期に王国はユーゴスラヴィア王国と改称、プリシュティナもユーゴスラヴィアの支配下におかれた。第二次世界大戦中は、イタリア軍、ついでナチス・ドイツに占領されるが、1944年にパルチザンによって解放される。 1946年、コソボ自治州の州都となり、人口も増加、中でも最も増加したのはアルバニア系住民であった。1980年には人口の70%はアルバニア人が占めるに至った。自治政府はユーゴスラビア共産党のアルバニア人党員が支配したが、政情不安は常につきまとった。1970年にはプリシュティナ大学が創設される。 第二次世界大戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが1980年に死去すると、セルビア内で民族主義が高揚する。プリシュティナでは、経済不況や食糧不足でアルバニア人の暴動が頻発する。1989年、セルビアの大統領・スロボダン・ミロシェヴィッチが自治を制限、アルバニア語の使用が制限されアルバニア系住民が多くの職場から排斥されると、コソボのユーゴスラビアからの分離を求める運動が激化する。イブラヒム・ルゴヴァに指導されたコソボ民主連盟が結成される。これに対してセルビア政府は強硬策で臨んだ。1996年からはコソボ解放軍による武装闘争が開始されるが、プリシュティナは当初は平穏であった。1999年3月、コソボ紛争が本格化すると、プリシュティナは戦場と化す。4月、NATOの空爆が開始されると、市内のあちこちで虐殺行為が展開された。多くの住民がマケドニア共和国方面に脱出、その数は、アメリカ合衆国国務省の推定で1999年の5月だけで100,000人にのぼる。コソボ紛争終結後は、40,000人いたセルビア人の多くがプリシュティナを離れたが、市内に留まった者の多くは、今度はアルバニア系住民の報復に怯えることになり、2009年にはプリシュティナから全てのセルビア系住民がいなくなった、と言われる。また、紛争でロマ人も多くが市を離れた。国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の本部が置かれている。
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