1999年~2004年:カペッロの監督就任とスクデット、黄金期の到来
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「フランチェスコ・トッティ」の記事における「1999年~2004年:カペッロの監督就任とスクデット、黄金期の到来」の解説
1999年6月、ASローマ会長のフランコ・センシは監督のゼーマンを解任し、新監督にACミランやレアル・マドリードでも指揮を執った元イタリア代表のファビオ・カペッロを招聘した。カペッロの下でローマはトッティを中心としたチーム作りを模索し、トッティはそのパスセンスと創造性の高さを生かすために、3-4-1-2フォーメーションの攻撃的ミッドフィルダーに配置された。2000年にはセリエA最優秀選手およびセリエA最優秀イタリア人選手に選出され、またバロンドールでも14位にランクインした。 2000-01シーズンには2-0で勝利した10月1日のホームでのボローニャとの開幕戦で先制点を挙げると、12月10日のホームのウディネーゼ戦では強烈なボレーシュートで決勝点をマークし、その後もコンスタントに得点を重ね、ローマはリーグの前半戦を首位で折り返した。トッティはシーズンを通してチームの躍進のために重要な役割を担い、そして迎えた最終節の2001年6月18日のホームのパルマ戦、ローマはトッティ、ガブリエル・バティストゥータ、ヴィンチェンツォ・モンテッラの3人のアタッカーが1得点ずつを挙げ3-1で勝利、ローマは悲願の18シーズンぶりのスクデット獲得(リーグ優勝)を決めた。トッティ自身はこのシーズンのセリエAにおいて、自己最多タイの13得点を獲得した。このシーズンの後の2001年、前年に続き2年連続でのセリエA最優秀イタリア人選手に選出された他、バロンドールの投票ではキャリアハイの5位に入った。 翌2001-02シーズンより3-5-2のフォーメーションにおいて、バティストゥータまたは新たに獲得した若手のアントニオ・カッサーノの後方で、フォワードとセカンドストライカーの間の位置で自由にプレーするフリーロールとして起用されるようになった。翌シーズンの2002年9月30日の3-2で勝利したアウェーのブレシア戦では、セリエAで初めてのハットトリックを記録した。また2002年10月30日にサンティアゴ・ベルナベウで行われたUEFAチャンピオンズリーグのアウェーのレアル・マドリード戦では、この試合唯一のゴールである決勝点を決めローマの1-0での勝利に貢献した。イタリアのチームがマドリードでの試合で勝利したのは実に35年ぶりとなった。これらの活躍にも関わらず同シーズンのローマはCLではグループリーグ敗退、セリエAでは8位という結果に終わり、またファイナリストにまで進出したコッパ・イタリアでは、決勝戦のACミラン戦ではトッティは2得点を挙げたが、チームは3-6で敗北した。それでもトッティは自らの活躍から、2003年には自身2度目のセリエA最優秀選手に選出された。続く2003-04シーズンには、セリエAで自身最多となる20得点を記録しローマの準優勝に貢献、自身2度目のセリエA最優秀選手に選出された。
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