1995年初め: スレブレニツァ「安全地帯」内の状況悪化
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「スレブレニツァの虐殺」の記事における「1995年初め: スレブレニツァ「安全地帯」内の状況悪化」の解説
1995年初めには、スレブレニツァへの補給物資搬入は困難を増していた。既に乏しかった民間人用の物資は更に不足を極め、国連軍までもが食料、医薬品、弾薬、燃料の危機的なまでの不足に直面した。燃料などの不足により、オランダ部隊による飛び地内のパトロールは徒歩に切り替えられた。スレブレニツァから外に出たオランダ軍兵士は帰還を認められず、その人数は600人から400人にまで減少した。3月から4月にかけて、オランダ部隊は2つの監視哨所、監視哨R(OP Romeo)および監視哨Q(OP Quebec)の近くでセルビア人勢力が増強されていることに気付いた。 1995年3月、和平合意に向けた交渉が進行中であり、国際社会から紛争終結への圧力があるにもかかわらず、スルプスカ共和国の大統領ラドヴァン・カラジッチは、スルプスカ共和国軍に対し、この飛び地に対する長期戦略に関する命令書を発した。この命令書は「命令書7号」として知られ、スルプスカ共和国軍に次のことを求めている。 スレブレニツァとジェパとの物理的分断を可及的速やかに完成させ、両飛び地の人員の連絡を遮断すること。熟考して計画された戦闘作戦によって、スレブレニツァの住民に対していかなる生存・生活の望みをも与えない、絶対的に危険な耐え難い状況を作り出すこと。 — 英訳に基づき引用者により翻訳。 1995年中ごろには、スレブレニツァにおけるボシュニャク人の民間人および軍人の生活環境は破滅的な状況に至った。5月には、ボシュニャク人のナセル・オリッチと彼の幕僚はヘリコプターで飛び地を脱出しトゥズラへと移り、現場には第28師団の高級士官たちが残された。6月末から7月初期にかけて、第28師団は一連の報告書を作成した。その中には、飛び地へと通じる人道上の回廊の再開を求める切迫した嘆願もあった。それが失敗に終わると、ボシュニャク人の市民はやがて飢えによって死に始めた。7月7日金曜日、スレブレニツァの市長は、8人の市民が餓死したことを報告している。
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