1962
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BT3の導入まで、ブラバムチームは1962年シーズンの序盤にロータス・24を使用した。ブラバムとトーラナックは1962年イギリスグランプリのためにBT3を準備することを望んでいたが、レース前の午前3時に、間違った排気システムが供給されていたことが判明した。BT3は1週間後に完成し、グッドウッド・サーキットとブランズ・ハッチで簡単なシェイクダウンテストが行われた。その後デビュー戦となる1962年ドイツグランプリのためニュルブルクリンクに送り出された。しかしBT3のデビュー戦は失敗に終わった。プラクティスでエンジントラブルが生じ、二線級のスペアエンジンを搭載したBT3は予選24番手となった。クライマックスのファクトリーから正しく組み上げられたスペアエンジンが届き、夜を徹して2度目のエンジン交換が行われた。決勝でBT3は序盤数周を快調に走行した。徹夜の突貫作業で応急のスロットルリンケージが組み込まれていたため、9周目にブラバムはスロットル操作にトラブルが生じた。適切なパワーコントロールができなくなったブラバムはリタイアに終わった。 ブラバムは3週間後のノンタイトル戦、デンマークグランプリでは再びロータスをドライブし、その数日後に行われたオウルトンパーク・インターナショナル・ゴールドカップではBT3をドライブした。5番グリッドからスタートしたブラバムは、ブレーキパッドを素早く交換しなければならなかったにも関わらず、最終フラッグまでに3位に浮上した。これは自身の名を冠したマシンでの初の表彰台であった。その後、同月後半にモンツァ・サーキットで開催された高速レースのイタリアグランプリをレースのプロモーターとの意見相違によって欠場し、終盤の2戦、1962年アメリカグランプリと1962年南アフリカグランプリでは連続して4位に入り、BT3にとって初のポイント獲得と、自身の名を冠したマシンでの初のポイントを獲得した。この2つのイベントの間にブラバムは初のメキシコグランプリで2位に入り、優勝したジム・クラークとトレバー・テイラーのロータス・25と唯一同一周回でフィニッシュした。
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1962
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P578の設計は、1961年シーズンのクライマックスエンジンを搭載したP57(P48/57とも呼ばれる)まで遡ることができる。シャシーは鋼管スペースフレーム構造で、サスペンションはそのまま流用された。出力不足のクライマックスエンジンはBRM製のV8エンジンと置き換えられた。このエンジンは190馬力を発揮した。また、ルーカス社製のインジェクションシステムを新たに搭載した。出力はクライマックスエンジンと同等であったが、BRMのエンジンは11,000rpmと、回転数が増加した。ギアボックスはコロッティの新型6速が搭載された。しかしながら、このギアボックスは信頼性に欠け、再び自社製の5速ギアボックスを搭載することになる。8本の排気管は当初垂直に取り付けられたが、次第に緩むようになったためより一般的な水平レイアウトに置き換えられた。
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