1957年総選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:24 UTC 版)
「サリット・タナラット」の記事における「1957年総選挙」の解説
1955年の政党法案の可決により、25を超える政党が急増した。政府の立法委員会は、ピブーン率いるセリ・マナンカシラ党に改組され、サリットが副党首、警察長官パオ・シーヤーノン(英語版)が事務総長を務めた。サリットは選挙プロセスで重要な役割を果たさず、一般的にパオを任命した。パオはピン・チュンハワンとともに「ソーイ ・ラーチャクルー」(ピン・パオ派) と呼ばれる派閥を形成しており、自身の警察権力で麻薬取締を建前に大がかりなアヘン・麻薬取引を行って資金源とするとともに、政治的影響力を利用してバンコク銀行やアユッタヤー銀行の経営陣に腹心の人間を送り込み手中に収めるなど、活動を経済圏にまで広げた。一方のサリット派はサリットの家の名前をとって「バーン・シーサオ」 と呼ばれ、政治資金源は宝くじ局の資金を流用し、またアジア銀行やバンコク・ユニオン銀行、ファースト・バンコク・シティ銀行の役員に弟のトーンドゥン、元側近のバンチュート・チョンタラウィチャーンら腹心の人間を迎え入れさせた。また、1951年にはアジア銀行役員に就任している。 1957年2月26日に行われた総選挙ではセリ・マナンカシラ党は民主党を破ったが、民主党は道義的な勝利を収めたと見られていた。民主党とマスコミは、政府が票を取り締まり、また「アンタファン」と呼ばれる若者不良集団を使って候補者と有権者の両方を恐怖に陥れたと非難した。国民の不満を抑えるために、ピブーンは非常事態を宣言し、サリットは1957年2月19日、タイ王国軍最高司令部(英語版)設立とともに初代陸海空軍最高司令官に任命された。しかし、サリットは、1957年の選挙についてコメントを求められると「汚れていた、最も汚れていた。誰もがだまされた。」と非難する発言をし、事実上、腐敗したセリ・マナンカシラ党から決別した。この発言は世論の支持を受けた。
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