1558年(永禄元年)説
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「忍原崩れ」の記事における「1558年(永禄元年)説」の解説
弘治2年5月に山吹城と石見銀山を支配下に置いていた毛利氏は、防長両国を平定した後の永禄元年 (1558年)5月下旬に小笠原氏方の諸城を攻め落とし、6月には温湯城(川本町)に迫った。晴久は本城常光らと共に温泉津(大田市)に出陣するが、豪雨の影響による江の川の増水で対岸の温湯城へ向かうことはできず、川を挟んで両軍が睨み合いとなり、その間に隆景の説得を受け入れた小笠原長雄は8月に開城した。 一方で、温湯城の救援に失敗した晴久が軍勢を転じて山吹城を攻めたために忍原で戦いが行われることとなった(温湯城が陥落しなかった異説有り)。 各説の資料は以下のとおり。 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』(吉川弘文館、2007年)p126 - 弘治2年7月 歴史群像シリーズ9 毛利元就(1988年 学習研究社)p71、p167 - 永禄元年 戦国合戦史事典(著:小和田泰経 2010年 新紀元社)p126 - 永禄元年 毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社)p184〜186 - 永禄元年7月下旬 山吹城跡(やまぶきじょうあと) - 大田市の紹介:ひろしま観光ナビ(広島県観光連盟) - 永禄元年 鉱山町、街道、港。すべては銀山によって形成された - 島根県PR情報誌シマネスク 2007年 No.64 特集記事(島根県広聴広報課) - 尼子晴久について「1558年、毛利軍を破り石見銀山を領有」と解説している。 世界遺産 石見銀山のすべて 戦国群雄の争奪戦 - 屋根の学校(石州瓦工業組合) - 大田の新原のでの戦いについて「永禄元年」と解説している。 大田市川合町忍原にある案内板「名勝 忍原峡案内図」 - 永禄元年
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