敵(てき)に塩(しお)を送(おく)る
敵に塩を送る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/16 13:52 UTC 版)
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敵に塩を送る(てきにしおをおくる)とは、日本の中世故事にもとづくとされることわざで、「苦境にある敵をあえて助ける」「目前の得失より長期的な利・理を求める」などの解釈がある。ただし、もとになったとされる故事は、史実とは見なされていない。
概要
内陸国に領地を持つ武田信玄は、同盟国の駿河国(静岡県)から食塩や塩漬けの魚介類を輸入していた。ところが1567年(永禄10年)、東海方面への進出を企てた信玄は13年間に及ぶ駿河国の今川氏との甲相駿三国同盟を破棄し、これを受けた今川氏真は自国に加え縁戚関係にあった相模国(神奈川県)の北条氏康の協力に仰ぎ、武田領内への塩留(塩止め)、すなわち食塩の禁輸政策を採った。これにより、信玄の領民は生活が困窮し、健康被害が懸念される事態となった。
そしてこれを見た越後国(新潟県)の上杉謙信が、敵対していた武田の領民の苦難を救うべく日本海側産の食塩を送った、という伝説から「敵に塩を送る」ということわざが生まれた、とされている。
しかし、文献に初めてこれらの話が現れるのは100年以上のちの『謙信公御年譜(1683年編纂、1696年上梓)だが、同文献は脚色が多く、信憑性が疑われている[1]。実際には、260年後に頼山陽が『日本外史』(1827年)でこの故事を美談として取り上げたことから日本国内で広まったとされる[1]。
現在の研究で当時の書簡類に「上杉方が塩を送った/売った」あるいは「武田方が受け取った/買った」という記録は見つかっていない。 このため、「故事は後世の創作」と言うのが現在では通説である[1]。
一部の研究家によって「謙信は便乗値上げを禁じ、正価での流通を維持させた」という政策的解釈も唱えられている[2]ほか、「駿河方面からの塩が入ってこなくなった代わりに、民間では糸魚川街道ルートでの塩の輸入が増えたため、これを"謙信からの贈り物"扱いした」という説もあるが[3]、いずれも肯定も否定も難しい。
脚注
- ^ a b c 「敵に塩を送る」本当にあった? 上杉謙信と武田信玄、美談の真相は - withnews・2018年7月17日
- ^ 上杉謙信から武田信玄へ「敵に塩を送る」は本当か - JBpress・2020年9月30日
- ^ 上杉謙信の美談「敵に塩を送る」はやっぱり作り話!?宿敵・信玄が塩を受け取った逸話の真相とは - 婦人公論・2024年6月9日
関連項目
外部リンク
敵に塩を送る
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「敵に塩を送る」は、敵の弱みにつけこまずに、逆にその苦境から相手を救うという意味で使われる故事成語である。戦国時代の戦いで、駿河の今川氏と相模の後北条氏は、海側からの塩の道を絶って、武田信玄の領地である甲斐・信濃への塩の流通を止める兵糧攻め作戦に出た。甲斐・信濃で塩が不足して苦しんでいることを知った越後の上杉謙信が「武士道に反する」として、敵対する武田氏領国に塩を送ったとされる故事が有名で、その塩が運ばれたのが千国街道であると言われることがある。長野県松本市の中心商店街ではこの故事にちなみ毎年1月に「塩市」から変節した「あめ市」(塩の貴重性が失われた後に貴重品であった砂糖を使用した飴の市に変節)が伝統行事として開催され武田方と上杉方による塩取り合戦(綱引き)などが行われ大勢の見物客でにぎわいを見せる。しかし当時の資料からは、塩止め(荷留)をしたという事実はないと考えられ、後世に作られた美談とされている。
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「敵に塩を送る」の例文・使い方・用例・文例
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