鬼王誕生日空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 14:48 UTC 版)
4月29日(天長節)正午前後、日本海軍第一・第二連合航空隊の45機(12空の小園安名少佐率いる九六艦戦27機、および13空の棚町整少佐率いる九六陸攻18機)が飛来する。中国空軍側も黄岡付近の監視哨で察知していたが、航空委員会本部と漢口総站長兼参謀長の邢剷非が出撃命令を渋っていたため、軍属の劉毅夫が独断で全機発進を意味する黒旗を掲げ、同地に駐留していた第4大隊18機およびソ連空軍志願隊39機を出撃させた。また、途中から孝感飛行場に駐屯していた第3大隊の10機も加勢した。 この空中戦による戦果は、日本海軍は51機撃墜、4機(中攻2、戦闘機2)喪失と発表したが、戦闘詳報は意図的に抹消された可能性がある。ただし、海軍航空本部教育部の作成した重要欠損調査表にて被害の詳細はある程度記述されており、喪失した艦戦のうち1機は被弾し帰途中に行方不明となったこと、ほか軽微な被弾3機、人的損害は未帰還となった中攻14名と艦戦2名、ほか帰還した中攻の偵察員2名死亡という事が分かる。一方の中ソ側記録は、撃墜21機(内訳は当時顧問であったクレア・リー・シェンノートが元国際14大隊隊員のエルヴィン・ギボンに宛てた手紙によれば戦闘機13・爆撃機8)となっている。また、海軍航空兵2名が捕虜になったとされる。被撃墜・被弾計12機(11機とも)でうち3機は修理可能、中国空軍1名、志願隊員2名が戦死した。この出来事は、日中戦争中最大規模の空中戦で、天長節であったことから中国では「鬼王誕生日空戦」と呼ばれている。
※この「鬼王誕生日空戦」の解説は、「武漢王家墩飛行場」の解説の一部です。
「鬼王誕生日空戦」を含む「武漢王家墩飛行場」の記事については、「武漢王家墩飛行場」の概要を参照ください。
- 鬼王誕生日空戦のページへのリンク