高級ワイン産地としての飛躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 23:13 UTC 版)
「リオハ・ワイン」の記事における「高級ワイン産地としての飛躍」の解説
1870年代にフィロキセラの災禍に見舞われたフランスは、スペインとの間に通商条約を結び、ワインの輸出に対する関税を大幅に引き下げていた。しかし、アメリカ合衆国産の苗木を台木としてブドウ畑の復興が図られると、1892年にはスペインとの通商条約を破棄した。一方のスペインもフランス産高級ワインの輸入を制限する動きを見せ、国産の良質ワインが待ちわびられた。リオハはこれらの動きに乗じ、1890年代から1910年代に相次いで建設された大規模なワイナリーがボルドー製法による良質ワインの量産を開始した。 当時は鉄道がワイン取引に重要な役割を果たしており、鉄道駅がビジネスの中心となった。大規模ワイナリーの多くは鉄道駅の近辺に建設され、特に主要なワイナリーの多くはリオハ・アルタのアロに立地した。アロは同じくワインの醸造で栄えたヘレスとともに、1890年代までに電気が引かれたスペインで2つしかない町のひとつである。アロは経済的な成功をおさめ、19世紀末には「アロ、パリ、そして……ロンドン」というフレーズさえ生まれた。ワイナリーはアロに集中し、ブドウ栽培に集中する周辺の村との役割分担が図られた。 ボルドー製法とテンプラニーリョ種を組み合わせたリオハのワイン産業は、この地域の醸造家によって代々受け継がれた。1902年にはリオハ・ワインの「起源」を決定する王令が公布されている。19世紀と20世紀の大半において、スペイン北西部における高品質ワイン生産は、リオハにほぼ限定されていた。19世紀末から20世紀初頭に設立されて現存するワイナリーには、モンテシージョ(1872年)、ロペス・デ・エレディア(英語版)(1877年)、ベルベラーナ(1877年)、CVNE(スペイン語版)(1879年)、アゲ(1881年)、マルティネス・ラクエスタ(1885年)、ラグニーリャ(1885年)、ラ・リオハ・アルタ(1890年)、ボデガス・フランコ・エスパニョーラス(1890年)、ボデガス・リオハナス(1890年)、ボデガス・パラシオス(1894年)、パテルニーナ(1896年)、ボデガス・ビルバイナス(1901年)などがある。 フィロキセラはフランスに蔓延してから約30年後にスペインに到来し、1901年までに多くのワイン産地に多大な被害を与えた。フランス人ワイン商人はリオハを去り、フィロキセラから復興したボルドーやラングドック・ルシヨン地方に帰った。スペイン北西部ではブドウの樹の植え替えに10年間を要したが、やがてリオハはヘレスと並ぶスペイン屈指のワイン産地としての地位を再び確立した。
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