馬場財政の混乱とその後とは? わかりやすく解説

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馬場財政の混乱とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 07:06 UTC 版)

馬場鍈一」の記事における「馬場財政の混乱とその後」の解説

1936年昭和11年)に広田内閣発足する馬場満を持して蔵相として入閣前任者高橋是清蔵相掲げていた公債漸減主義放棄し国防充実地方振興のためには増税公債増発をもいとわない財政声明出した馬場財政)。またその政策遂行のために省内の人刷新にも着手長沼弘毅蔵相秘書官にして新たな人事を練らせた。まず津島寿一次官退任させ、軍部強硬に渡り合ってきた賀屋興宣主計局長を理財局長に異動させたほか、石渡荘太郎主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと、それぞれ省外へ放出した。 こうして馬場初め主導権握って作成した昭和十二度一般会計予算案の概要次の通りだった。 十二度予算案前年度歳出30億3850万円 7億6650万円増(↑33.7%) うち軍事費140800万円 3億4900万円増(↑33.0%) 公債発行額9億5700万円 2億7700万円増(↑40.7%) 増税額4億1750万円増収1億5480万円増税タバコ値上げなどで賄うことにした。こうして昭和十二度予算案明らかになると、軍需資材需要増を見込んだ商社一斉に輸入注文出し輸入為替殺到して円が下落輸入物資高騰を招く混乱招いた。この直後1937年昭和12年1月21日浜田国松議員寺内寿一陸相との間で「腹切り問答」が起き、これに憤慨した寺内単独辞任ちらつかせながら衆議院懲罰的解散することを広田要求すると、広田はあっさりと閣内不一致理由内閣総辞職。これでこの予算案結局廃案となった。しかし後に広田賀屋興宣対し、実は「腹切り問答」は助け舟のようなのだったことを打ち明けた本当馬場財政のあおりで外国為替経済情勢混乱してどのみち内閣投げ出さざるを得なかったのだという。 広田内閣総辞職から短命林内閣経た4ヶ月後の1937年昭和17年6月第一次近衛内閣発足すると、馬場軍部の強い後押しにより内務大臣として入閣した軍部もとより近衛当初馬場蔵相再起用することを考えていたのだが、財界には馬場財政への不信風当たりがたいへん根強くかといって今更断れない近衛結局馬場副総理格の内相という、そもそも広田外相として迎え二頭立て陣容になっていた近衛内閣においてはいかにも中途半端な立場処遇せざるを得えなかったのである馬場はそれからわずか半年後に病気理由辞任すると、1週間後12月21日心筋梗塞起こして急死した。満58歳。没後従二位勲一等旭日大綬章贈られた。

※この「馬場財政の混乱とその後」の解説は、「馬場鍈一」の解説の一部です。
「馬場財政の混乱とその後」を含む「馬場鍈一」の記事については、「馬場鍈一」の概要を参照ください。

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