雍正帝の青海出兵の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 01:20 UTC 版)
「雍正のチベット分割」の記事における「雍正帝の青海出兵の背景」の解説
オイラト系モンゴル人のグシ・ハンは、1637年 - 1642年にかけて、チベットのほぼ全土を征服、いくつかの大領主を滅ぼし、その他の各地の諸侯を服属させた。彼らは従前、明朝からの冊封をうけていたが、この時期、中国は明末清初の混乱状態にあり、グシ・ハン王朝によるチベット征服に対し、中国側からの抵抗はなかった。 グシ・ハン一族によるチベット東部の支配形態には、数年任期の代官を派遣して統治にあたらせる直轄領と、古くからの歴史をもつ諸侯に貢納させ、所領の安堵や内紛の調停を行う諸侯領とがあったが、中国において清朝の支配が確立すると、中国との隣接地方に位置する諸侯の中には、領主の跡目争いや内紛などで、清朝に頼ろうとするものがでてくるようになり、17世紀後半より、チベットと中国の境界地方では、グシ・ハン一族と清朝地方官の小競り合いがみられるようになった。 清朝側では、グシ・ハン一族のチベット諸侯への支配について、「本来『内地』に属するはずの蕃人たちが、不当に蒙古の支配を受けている」という立場をとり、たとえば1720年、ジュンガルの侵攻に対する救援を名目に康熙帝が介入した際には、リタン、バタンの有力者たちを「招撫」(清朝の支配下に入るようもとめること)し、また雍正帝はカム地方に地方官を派遣し、カム地方の諸侯に清朝の冊封を受けるようもとめ、拒否するものは天子に戦を仕掛けたものと見なすと威嚇、グシ・ハン一族から抗議をうけている。 ただし康熙帝は、「グシ・ハンの立てた法」をチベットの正統な政体とみなし、ジュンガルのチベット侵攻に対する介入にあたっては、「ダライラマを擁するチベット・ハン」という旧体制の復活を支援するという建前にもとづいて行動したのに対し、雍正帝は18世紀初頭以来続くグシ・ハン一族の内紛を、懸案解決の好機とみなし、1723年、内紛の当事者ロブサンダンジンを「清朝に対する反乱者」と決めつけ、 年羹堯を司令官(撫遠大将軍)とする遠征軍を青海地方に派遣し、グシ・ハン一族を一挙に制圧するにいたる。
※この「雍正帝の青海出兵の背景」の解説は、「雍正のチベット分割」の解説の一部です。
「雍正帝の青海出兵の背景」を含む「雍正のチベット分割」の記事については、「雍正のチベット分割」の概要を参照ください。
- 雍正帝の青海出兵の背景のページへのリンク