雍正帝による青海出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)
「チベットの歴史」の記事における「雍正帝による青海出兵」の解説
康煕帝の後を継いだ雍正帝は父帝の方針を一転し、グシハン一族の権限や権益をチベットから排除することをめざし、グシハン一族が本拠をおくチベット東北部・アムド地方の北部に位置する青海草原に1723年に侵攻、翌1724年までに、グシハン一族をすべて制圧した。雍正帝はグシハン一族がチベットの諸侯たちやチベットの各地に有していた権限・権益をすべて接収、80年間つづいたグシハン一族のチベット支配はほぼ完全に覆され、グシハン一族が本拠地をおいていた青海草原と直属の青海ホショト部族は盟旗制、アムド地方とカム地方東部の諸侯たちは土司制によって清朝の支配下に組み込まれた。 康熙帝は、「グシ・ハンの立てた法」をチベットの正統な政体とみなし、ジュンガルのチベット侵攻に対する介入にあたっては、「ダライ・ラマを擁するチベット・ハン」という旧体制の復活を支援するという建前にもとづいて行動したのに対し、雍正帝は18世紀初頭以来続くグシ・ハン一族の内紛を、懸案解決の好機とみなし、1723年、内紛の当事者ロブサン・ダンジン(中国語版、ドイツ語版、オランダ語版)を「清朝に対する反乱者」と決めつけ、 年羹堯を司令官(撫遠大将軍)とする遠征軍を青海地方に派遣し、グシ・ハン一族を一挙に制圧する。雍正帝はグシ・ハン傍系一族を屈服させ、彼らがチベットに有していた様々な権限や権益を略奪した。この攻撃によりグシ・ハン一族はチベット王権も喪失して王朝は終焉をむかえた。
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