陽南分校存廃問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:14 UTC 版)
「宇都宮市立陽南小学校」の記事における「陽南分校存廃問題」の解説
1948年(昭和23年)宇都宮市の設置した学校に市税を納めない姿川村・横川村の子弟が通う現状を憂い、横川村内にある本校へ市費を投じることに懸念が生じ、分校閉鎖の機運が高まる。姿川村・横川村としても「宇都宮市の学校」として存続は冷ややかであり、村の財政状況から学校を引き継ぐことは不可能であった。1947年には8名の分校卒業生が宇都宮市立一条中学校に入学を許可されたが、1948年度は130余名と激増したため受け入れを拒否され、小学校問題は中学校問題とも連動していった。 2月17日には、分校閉鎖を反対する父兄や地域住民など1,500名が分校から栃木街道・材木町通り・大通りを経由して栃木県庁・宇都宮市役所までデモ行進が行われた。 4月10日は宇都宮市内の小学校の入学式であったが、3月に入っても陽南分校の児童には就学通知は未到達であった。入学式当日も市側は「問題解決が間近であるから児童を受け入れを拒否するように」と釘を刺されたが、「教育的良心」から分校側は新入生265人を受け入れた。(児童数1,180名、学級数25、教職員28) 合併問題を優先させてきた宇都宮市と両村は「学校教育の解決こそ先決」と態度を転換した。4月16日、県・市幹部、両村長の4者協議により旧中島飛行機の青年学校舎(現在地)の校舎と敷地の買収が先決であると意見を一致させた。4月27日、陽南分校と中学校は、1市2村の組合立として開校することとなった。5月17日、県知事と富士産業社長との協議で買収費用が400万円に決まり、県が130万円、三者がそれぞれ100万円で旧青年学校舎・敷地を買収し、残額30万円で施設修理費すると決着した。
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