分校閉鎖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:25 UTC 版)
1973年3月には七ヶ宿町立湯原小学校稲子分校が閉鎖された。稲子分校の校舎には30平方メートルほどの教室が1つあり、最大で18人の児童が学ぶ時期もあったが、廃校時の児童数は2名だった。教師は1人だけで、太平洋戦争中から廃校までの30年間、稲子出身の同一の教師が1年生から6年生の全員の授業を担当した。教師は将来性のない稲子地区を考えて子供たちには離村を勧めたが、そのことで保護者から「余計なことを子供に吹き込まないでくれ」と苦情が入ることもあった。この教師は校舎内のガリ版印刷機とわら半紙を使って「稲子部落」という冊子を製作し、閉校式の出席者に配布した。制作された冊子は、地区に伝えられる昔話や住人の生活について記載した10ページほどの内容であり、最後のページには「いかに辺地でも、そこに生を受け、もの心づき、そして清流に遊び、風雪にきたえられて人となった者にとっては掛け替えのない真の古里である」と書かれている。教師は閉校後仙台市に転居したが、その後も稲子出身の人々には「先生」と呼ばれ親しまれた。分校は国道399号線から未舗装の山道に入り、地蔵堂の脇を抜けた先にあったが、現在は木が生い茂り錆びた金属製のフェンスが残るのみとなっている。
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