院近臣の抑圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:57 UTC 版)
後白河法皇は末娘の宣陽門院を溺愛して、院領の中でも最大規模の長講堂領を伝領させたが、宣陽門院の生母・丹後局と宣陽門院執事別当の土御門通親は所領拡大のために、播磨国・備前国において荘園の新規立券を行った。兼実は摂関家嫡流に生まれた自負から院近臣に反感を抱いていたが、法皇崩御を機にその抑圧に乗り出し、手始めにこの宣陽門院領の立荘を取り消した(『愚管抄』)。さらに建久4年(1193年)12月9日の除目において、参議の山科実教・藤原成経の中将兼任を停めて両名を辞職に追い込んだ。実教と成経は院近臣の代表的な家柄である善勝寺流の出身であり、実教は丹後局の子・教成を猶子としていた。翌年正月には、教成も左少将を辞任している。これらの措置は丹後局の憤激を招き、廟堂から排除された院近臣は宣陽門院を牙城として兼実を追い落とす機会を伺うことになる。 兼実の認識では摂関家・公卿・諸大夫の区別が厳然として存在し、院政期に台頭した善勝寺流や勧修寺流は元々は摂関家の家司であるとして一段低く見る傾向があった。兼実の執政下では、大納言は摂関家・花山院流・閑院流などの上流貴族に限定され(例外は兼実の義兄で道綱流の藤原定能のみ)、実務官僚として地道に実績を積み上げてきた勧修寺流の吉田経房、葉室光雅、葉室宗頼などは昇進を見送られた。また兼実の故実先例へのこだわりは、誰にも掣肘されることのない最高権力者の立場になってから更に厳格さを増していった。公事・作法の過失・懈怠に対しては、過状の提出を求めたり勘責を加えるようになり、朝廷内では中・下級貴族を中心に兼実への反発が広がっていった。
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