阿部 (企業)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 06:22 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動阿部株式会社(あべ)は、愛媛県今治市にかつて存在していたタオル・織物メーカー。
概要
1896年に阿部平助と光之助によって「阿部合名会社」として設立。阿部平助は1894年に今治で最初のタオルづくりを始めた人物である[1]。綿布織機を設備すると同時に打出式タオル織機30台を据えつけ、綿ネルとタオルの兼営工場を建設した[2]。
しかし、タオルは製造技術が大阪に比べて劣り、生産コストもかさんで利潤は少なかったので、好調であった綿ネルに主力を注ぐこととなり、1916年にはタオル製織を一時中止した[2]。第二次世界大戦中は軍服用の綿織物を生産し、戦後は東南アジアを中心に広幅綿織物の輸出を拡大した[3]。1960年には綿織物用の織機を改造してタオルの製造を再開[4]。
1960年代末になると、市内の騒音問題や公害問題に直面し、1970年に東予市三芳に15,000坪の土地に織物工場13,500坪とタオル工場1,500坪を併設した 大工場を建設した[4]。しかし、繊維不況で主力の綿織物の輸出が低迷し経営が悪化。
1980年に和議を申請し、旭染織に織物工場、旭染織が設立したトウヨテリーにタオル部門の80名の従業員と三芳工場を譲渡した[5]。1983年には今治造船傘下の今治産業に43億円の債務と土地建物の資産を譲渡[5]。阿部(株)の染晒工場があったところには、今治造船傘下の今治国際ホテルが立地している[3]。
なお、事業を継承したトウヨテリー(株)は、親会社の旭染織と共に2008年に民事再生手続きの申請した[6]。
沿革
- 1890年 - 阿部平助が紀州綿ネルの製造開始。
- 1894年 - 阿部平助が4台の織機でタオル製造開始。
- 1896年 - 「阿部合名会社」設立。
- 1913年 - 「阿部株式会社」に改組。
- 1916年 - 広幅綿織物と綿ネルの製造に特化しタオルの製造を中止。
- 1960年 - 綿織物用の織機をタオル用に改造してタオルの製造を再開し、 手捺染によるプリントタオルの製造開始。
- 1972年 - 三芳工場の操業開始。
- 1980年 - 和議申請。旭染織(株)が設立したトウヨテリー(株)にタオル部門、旭染織に残りの織物工場を譲渡。
- 1983年 - 今治造船(株)傘下の今治産業(株)に43億円の債務と土地建物の資産を譲渡。
脚注
- ^ 今治タオルプロジェクト人材育成委員会(2013)『タオル読本』、10頁。
- ^ a b 四国経済連合会「4.今治タオルの創業者 阿部平助」『四経連』、2007年6月号、6頁。
- ^ a b 今治市立図書館(2014)『タオルびと』、2014年10月号(中谷稔氏編③)、4頁。
- ^ a b 今治市立図書館(2014)『タオルびと』、2014年10月号(中谷稔氏編③)、5頁。
- ^ a b 今治市立図書館(2014)『タオルびと』、2014年11月号(中谷稔氏編④)、1頁。
- ^ タオル製品製造、靴下販売(愛媛)/トウヨテリー(株) - ネットアイビーニュース(2008年5月29日)、2021年5月5日閲覧。
「阿部 (企業)」の例文・使い方・用例・文例
- 私、株式会社福田製薬の総務部の阿部と申します。
- 当社のセールスマネージャーの阿部をご紹介します。
- 誰かと思えばなんと阿部君だった。
- 阿部博士は日本を代表して同会に列した.
- あなたのことは阿部さんからよく承っております.
- 社民党本部で,学生たちは阿部知(とも)子(こ)政策審議会会長と会った。
- 後半26分には,ミッドフィルダーの阿部勇(ゆう)樹(き)選手がヘディングで得点し,レッズの勝利を決定的にした。
- 「自分たちの学校出身のプロ選手が訪問しに戻ってきたら,子どもたちは大変喜ぶだろう。」と阿部選手は考え,この企画に参加するようチームメイトに呼びかけた。
- 「これらの訪問の結果,より多くの児童が野球に興味を持ってくれれば。」と阿部選手は話した。
- 近鉄南大阪線のターミナル駅,大阪阿部野橋駅に直結する。
- セ・リーグを代表する強打者の1人であるジャイアンツの阿部慎(しん)之(の)助(すけ)捕手はチームのセ・リーグ優勝に貢献した。
- しかし,阿部選手は最終戦となった第6戦で復帰し,決勝打を放った。
- 人気と才能を兼ね備えた俳優の阿部寛(ひろし)氏が,道(みち)尾(お)秀(しゅう)介(すけ)氏による賞を獲得した小説を基にした本作で主演している。
- 最近の作品で,阿部氏は刑事や古代ローマ人などいろいろな役を演じている。
- タケ(阿部)の人生は後悔に満ちている。
- 阿部_(企業)のページへのリンク