阻まれる横綱昇進
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幕下優勝を果たして十両昇進が目前だった1942年に召集され、戦地で少なくとも銃弾2発を浴び、その内1発は貫通し、もう1発は体内に残留した。日本国内には吉葉山の戦死を伝える情報まで流れ、高島部屋の力士名簿からも除籍されていたが、1946年になってようやく復員した。しかし、4年間の長きに渡って戦場に出向き、さらに銃弾を受けて死亡説まで流れたことも関係し、すっかり痩せて部屋に帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたほどだった。復員後は激減した体重を元に戻すべく、胃袋との渾名が付くほどに食事を摂り、失われた4年間を取り戻すべく必死に稽古に励んだ。1947年6月場所では、東十両4枚目の位置で復帰し、同年11月場所で入幕した。 関脇で迎えた1950年9月場所は13勝2敗の好成績を挙げたが、優勝決定戦では本割でも敗れた照國に再び敗れた。新関脇での13勝は15日制となって以降は、五ツ嶋奈良男に次いで2人目で現在まで最多である(琴欧洲勝紀、照ノ富士春雄も達成)。翌場所も13勝2敗だったが、照國が全勝優勝を果たしたために優勝賜杯を抱くことは無かった。しかし、関脇で2場所連続13勝が大いに評価されたことで、場所後に鏡里喜代治と共に大関へ昇進した。 皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があることから早期の横綱昇進が期待されたが、優勝が無いことが災いして届かなかった。1953年5月場所は14勝1敗だったが、前頭6枚目の時津山仁一が全勝優勝を果たした。このように、吉葉山の土俵人生には尋常ではない不運と悲劇が纏わり付いていた。
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