阻まれる横綱昇進とは? わかりやすく解説

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阻まれる横綱昇進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:20 UTC 版)

吉葉山潤之輔」の記事における「阻まれる横綱昇進」の解説

幕下優勝果たし十両昇進目前だった1942年召集され戦地少なくとも銃弾2発を浴びその内1発は貫通し、もう1発は体内残留した日本国内には吉葉山戦死伝え情報まで流れ高島部屋力士名簿からも除籍されていたが、1946年になってようやく復員した。しかし、4年間の長き渡って戦場出向き、さらに銃弾受けて死亡説まで流れたことも関係し、すっかり痩せて部屋帰ってきたときは玄関番幽霊間違われたほどだった。復員後激減した体重元に戻すべく、胃袋との渾名が付くほどに食事を摂り、失われた4年間を取り戻すべく必死に稽古励んだ1947年6月場所では、東十両4目の位置復帰し同年11月場所入幕した。 関脇迎えた1950年9月場所13勝2敗の好成績挙げたが、優勝決定戦では本割でも敗れた照國に再び敗れた新関脇での13勝は15日となって以降は、五ツ嶋奈良男次いで2人目で現在まで最多である(琴欧洲勝紀照ノ富士春雄達成)。翌場所も13勝2敗だったが、照國全勝優勝果たしたために優勝賜杯を抱くことは無かった。しかし、関脇で2場所連続13勝が大い評価されたことで、場所後に鏡里喜代治と共に大関昇進した皆勤すれば必ず2勝て実力があることから早期横綱昇進期待されたが、優勝が無いことが災いして届かなかった。1953年5月場所14勝1敗だったが、前頭6目の時津山仁一全勝優勝果たしたこのように、吉葉山土俵人生には尋常ではない不運悲劇が纏わり付いていた。

※この「阻まれる横綱昇進」の解説は、「吉葉山潤之輔」の解説の一部です。
「阻まれる横綱昇進」を含む「吉葉山潤之輔」の記事については、「吉葉山潤之輔」の概要を参照ください。

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