防災庁舎の悲劇
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「南三陸町防災対策庁舎」の記事における「防災庁舎の悲劇」の解説
2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。当初の6mという津波予想のため、庁舎に留まり避難しなかったのが、犠牲者を大きくする一因となった。2階に危機管理課があり、町災害対策本部が置かれた。本庁舎では津波来襲の15時25分頃まで、防災無線放送で繰り返し住民に避難を62回に渡り呼びかけ続けた。本庁舎から発信された約30分間の防災無線の放送音声は全て録音されている。 危機管理課の女性職員・遠藤未希は繰り返し避難を呼びかけ続けたが、波の高さについては「最大で6メートル」という放送が続き、最後の4回のみ「10メートル」と放送した。音声は、放送を続けようとする遠藤の声を遮るように「上へ上がって 未希ちゃん 上がって」という周囲の制止の声を最後に放送が途切れている。遠藤は津波に飲まれ殉職した。 最期まで防災無線で避難を呼びかけ続けて犠牲になった遠藤の行動は、「多くの命を救った命懸けのアナウンス」と大きく評価され、埼玉県の公立学校で2012年の4月から使われる道徳の教材に掲載された。 当初、津波の高さの予想は最大で6メートルだったため、当時、行政庁舎で勤務していた130名のうち、53名がこの3階建の防災庁舎の屋上に避難した。しかし津波は予想の高さを超え、庁舎の屋上床上約2メートルの高さまで押し寄せた。その水圧と流れにより、屋上に避難していた人々の多くが津波に流され、犠牲になった。生還したのは、佐藤仁町長ら10名。彼らは庁舎の屋上中心に立っていた高さ5メートルのアンテナのポールや、屋上へ向かう鉄骨製階段の手すりにしがみついたことで生還することができた。 屋上で写真を撮影していた職員(この職員は津波に飲まれ気絶したが、副町長が腕を掴み続けていたので、無事生還している)のデジタルカメラの本体は壊れてしまっていたが、データは無事で、津波が来る前から屋上が水没する瞬間までを捉えた様子が写っており、写真の一部は南三陸町のホームページに掲載された。 また、堅牢な建物であり2階の電算室で各種行政システムを管理していたが、サーバ及びバックアップテープも滅失した。
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