開陽の引揚げと復元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:43 UTC 版)
江差沖に沈没した開陽の引き揚げは箱館戦争直後から何度か行われていたが、本格的に行われたのは1873年(明治6年)で、大砲や弾丸、錨などが引き揚げられた。しかし、潜水具や専門の機材も持ち得ていなかった為、全てを引き揚げるには至らなかったが、座礁した神速丸の物も同時に集積されたため、「開陽丸は昔に引揚げが行われ、もう無い」という認識が一般化した。こうした認識に疑問を呈した江差町教育委員会教育長の石橋藤雄は、1974年(昭和49年)8月23日、文献から沈没位置を推定し、潜水調査を行い、開陽の遺留品を発見した。 この発見は文化庁にも認められ、翌年より引揚げ作業が本格的に行われることとなった。大砲、弾丸、火薬缶、ロープ、帆布、サーベル、日本刀等3万2905点が引揚げ・脱塩処理されている。また、オランダに保管されていた設計図に従い開陽丸を復元するプロジェクトも開始され、復元軍艦内に引揚げ品を配置し、「開陽丸青少年センター」としてその歴史と共に開放された。 開陽丸の船体および遺物は1975年(昭和50年)、日本初の海底遺跡として登録されている。 5月中旬に開催される箱館五稜郭祭では、開陽丸を模した山車が函館市街を引き回される。
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