開市の延期活動
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「タウンゼント・ハリス」の記事における「開市の延期活動」の解説
1860年8月1日、アメリカ国務長官ルイス・カスに対して書簡で、通商条約により再来年に控えた江戸の開市(1862年1月1日の予定)の延期を進言した。実は下田に着任した当時、ハリスへの襲撃未遂事件があり、以降も攘夷による在留外国人に対する襲撃や焼き討ちが相次ぎ、また孝明天皇からの条約勅許はいまだ幕府から出ておらず、現在の幕政下での開市は時期尚早と判断していた。10月31日(万延元年9月18日)、ハリスは老中安藤信正と会談し、急すぎる開市の延期を希望していた幕府との思惑とも一致し、また翌1861年1月14日(万延元年12月4日)にはヒュースケンが殺害される事件がおき、ハリスは確信に至ったと思われる。5月2日(文久元年3月23日)、将軍家茂名での「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」が各国公使に出されると、ハリスはヒュースケン後任のアントン・ポートマンに翻訳させて5月8日(文久元年3月29日)付けでアメリカ本国へ急激なインフレが進行している旨と併せて報告した。 8月1日(文久元年6月25日)付けでエイブラハム・リンカーン大統領、ウィリアム・スワード国務長官から家茂宛の書簡がハリスに届くが、内容はヒュースケン殺害の補償までは開市延期を含む一切の譲歩はしないというものだった。ハリスは幕府の正信や久世広周と交渉して補償の合意を取り付けた後、11月27日にオールコックに5年間の開市延期の自由裁量を得たことを通知、12月6日、家茂に面会してリンカーンの親書を直接手渡し、12月14日(文久元年11月13日)に幕府から補償が実行された。12月28日、正信にはイギリス以外の各国の自国民にも併せて開市の延期を通達したと書簡で報告された。これは予定されていた開市のわずか3日前だった。この後、文久遣欧使節とイギリスとの間でロンドン覚書(1861年6月6日)、パリ覚書(同年10月2日)など、各国とも開市延期に同意している。
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