開山縁起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:21 UTC 版)
伊呂波字類抄(平安末期という)による 「立山大菩薩顕給本縁起 越中守・佐伯有若宿禰が、仲春上旬の頃、鷹狩りのために山に入ったところ鷹が逃げてしまった。それを見つけに山中に入っていくと熊が現れ襲ってきたので、矢を射かけた。熊は、矢を受けたまま山中に逃げていった。それを追っていくと、その熊とみえたのは金色の阿弥陀如来で、その身には有若が射た矢が刺さっていた。これを見た有若は菩提心を発し、弓を折り髪を切って沙弥となり、慈興と名乗った」 類聚既験抄(鎌倉末期という)による 「越中国立山権現 文武天皇御宇・大宝元年(701)始めて建立された。相伝に云う 立山にいた狩人が、熊を矢で射て追いかけたところ、その熊は矢を受けて立ったまま死んでいた。しかし、その屍体を見ると、熊ではなく金色の阿弥陀如来であった、乃ち此を立山権現と云う」 和漢三才図会 巻六八(1712・江戸中期)による 「立山権現 文武天皇・大宝元年(701)、天皇は阿弥陀如来からの夢告により、佐伯宿禰有若を越中国国司に任じた。ある日、有若の子・有頼が、父が愛育していた白鷹を借りて鷹狩りをしたところ、鷹が逃げてしまった。鷹を行方を探している有頼の前に、右手に剣をさげ左手に数珠を持った翁(刀尾天神・たちおてんじん)があらわれ、「鷹は横江の森にいる」と教えて消えていった。なおも深山に入っていくと大熊が現れ襲いかかってきたので、有頼は弓に矢をつがえて熊の胸を射貫いた。 熊は血を流しながら玉殿の岩屋のなかにに逃げ込んだので、有頼も続いて岩屋に駆け込んでみると、熊はおらず三尊が並び立っておられ、しかも阿弥陀如来像の胸には自分が射放った矢が突き立ち血が流れていた。驚いた有頼がその場に伏せていたら、阿弥陀如来があらわれ、『私は濁世の衆生を救おうとして、この山に十界を現して(地獄極楽をすっかりそろえて)、お前の来るのを待っていた。有若を国司にしたのもそのためである。鷹は剣山の刀尾天神で、熊は私である。お前は早く出家して此の山を開け』と告げた。 これを聞いた有頼は感泣して山を下り、五智山の慈朝について仏門に入り、慈興と名乗って立山を開き、立山大権現の大宮などを建てた」 有頼が、山に入って草をかみ元気を回復した坂を草生(くさおい)坂、妖気迫り、抜刀して切払った坂を断截(だんさい)坂、称名念仏の声に励まされてやすやすと登った坂を刈安(かりやす)坂といい、念仏の声は滝の音だったので、その滝を称名(しようみよう)滝といい、滝を伏拝んだ地を伏拝(ふしおがみ)というなどの地名説話がある。
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