開催までの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 06:00 UTC 版)
第二次世界大戦後の1940年代後半から1950年代にかけて、日本では中小のオートバイメーカーが乱立した。中でも名古屋市を中心とする中京地区には数多くのメーカーがあった。全国で180社以上といわれた1950年代のオートバイメーカーのうち、中京地区には80社近くが存在し、人口あたりのオートバイ普及台数は全国で最も高かった。(ただし、80社というのは存在していたメーカー数のトータルであり、同時期に80社が存在したわけではない) 一方、オートバイメーカーや販売業者の集まりである日本小型自動車工業会は、小型自動車の普及のためにGHQや政府に働きかけ、1949年に戦後初のレースイベントである全日本モーターサイクル選手権大会、通称「多摩川レース」を開催した。多摩川レースには130台のオートバイが出場し、2万人以上の観客を集める成功を収めた。 「全日本オートバイ耐久ロードレース#時代背景」も参照 多摩川レースの成功により、大小のメーカーが乱立する中で「自社のオートバイの性能をアピールするためにレースは有効な手段である」と気づいたオートバイ業界では、当時世界最大のレースイベントであったマン島TTレースのような本格的なレースが開催できないかという模索が始まった。当初企画した首都圏での開催が様々な事情によって不可能となった後、最もオートバイ産業が盛んであった中京地域でのレース開催が検討された。そして戦前のオートバイレースで活躍し中部日本小型自動車選手協会常任顧問を務めていた平田友衛が発起人となって関係機関に働きかけた結果、名古屋タイムズ社の主催によるイベント開催が決定した。平田は大会記録委員長として携わり、通産省と運輸省が後援、通産大臣が大会名誉会長とされた。 ただし公道上でスピードを競うレースを行うことは許可できないという警察からの指導によって公然と「レース」を名乗ることができず、大会名称は「全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード」とされた。「旅行賞」とは手本とされたマン島TTレースの「TT(ツーリスト・トロフィー)」を直訳したものである。ただし、本来は 「ツーリスト・トロフィー」の「ツーリスト」は単に「旅行者」ではなく「長い道のり(試練)を乗り越えたスポーツ選手」といった意味合いである。
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