開催までの道のり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:19 UTC 版)
直接打撃制による組手試合は、山田辰雄が1962年に初めて実施していたが、寸止め試合を行う伝統派空手の諸流派から黙殺され失敗に終わった。大山倍達は極真会館竣工以降、1964年に行われた東京オリンピックの各種オリンピック競技をたびたびスタジアム観戦していたことで「極真会館内の競い合いではなく、他流派・他格闘技の参加を認めたオープン制とトーナメント制の選手権大会」を開催しようと検討し始め、名称もこのときは「全日本格闘技選手権大会」としていた。今でこそ直接打撃制の空手道選手権大会をいろいろな流派が開催しているが、当時は直接打撃に危惧を抱く会場側は決して協力的ではなく、極真会館は試合会場をなかなか確保できなかった。東京体育館とは都合3年も交渉を行い、その頃、盛んになり出したキックボクシングの例をあげ、その安全性をよく説明することにより許可を得て、ようやく1969年9月に念願であった第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(以降、全日本選手権に略)として開催に至った。
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