長野オリンピック出場・15位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:15 UTC 版)
「本田武史」の記事における「長野オリンピック出場・15位」の解説
1993-1994シーズン、中学1年のときに出場した初めての国際大会トリグラフトロフィーノービスクラスで優勝。1994-1995シーズンの全日本ジュニア選手権で3回転アクセルに成功。翌1995-1996シーズン、優勝したネーベルホルン杯の公式練習では4回転ジャンプに成功した。初のシニア大会NHK杯では4位。全日本ジュニア選手権で初優勝を果たし、世界ジュニア選手権では初出場ながら2位(優勝はロシアのアレクセイ・ヤグディン)。同シーズンの第64回全日本選手権では男子シングル選手として史上最年少の優勝を果たし、14歳の若さで日本のエースとして1996年世界選手権に初参戦、13位と健闘した。 1996年4月、仙台市の東北高校に進学(同高校の1学年上に1998年長野オリンピック男子シングル日本代表の田村岳斗、1学年下に2006年トリノオリンピック女子シングル金メダリストの荒川静香、長野五輪ペア日本代表の荒井万里絵らがいた)。1996-1997シーズンからISUチャンピオンシリーズに参戦し、3大会に出場。第65回全日本選手権では2連覇を達成。2度目の出場となった1997年世界選手権では10位となり、長野オリンピックの男子シングル日本代表の出場枠「2」を確保した。1997年10月には早くも1998年長野オリンピック男子シングル日本代表に内定。同年11月のNHK杯時に、4回転ジャンプの着氷に失敗して右足首を痛める。長野オリンピック直前の同年12月より、米国に拠点を置いていたガリーナ・ズミエフスカヤに師事。第65回全日本選手権は怪我により欠場。 1998年2月の長野五輪男子シングルは、ショートプログラム(SP)のトリプルアクセルからコンビネーションの転倒失敗が響き18位と大きく出遅れ、フリースケーティングではやや挽回するも12位、総合で15位に終わった。続く1998年世界選手権で、予選競技会では自身初の4回転トウループに成功したが、SP・フリー共にジャンプミスが出て11位に留まった。
※この「長野オリンピック出場・15位」の解説は、「本田武史」の解説の一部です。
「長野オリンピック出場・15位」を含む「本田武史」の記事については、「本田武史」の概要を参照ください。
- 長野オリンピック出場・15位のページへのリンク