長谷川俊英
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長谷川 俊英
はせがわ しゅんえい
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| 生年月日 | 1941年??月??日 |
| 出生地 | |
| 出身校 | 立命館大学法学部 |
| 前職 | 刑事事件の被告人(当時)、桃山学院大学職員 |
| 公式サイト | 長谷川俊英 公式サイト |
| 選挙区 | 北区選挙区[1] |
| 当選回数 | 8回 |
| 在任期間 | 1979年 - 現職 |
長谷川 俊英(はせがわ しゅんえい、1941年(昭和16年)[2] - )は、堺市議会議員(8期)。「都市政治研究所」代表[3]。京都府学連事件(京都地方裁判所昭和39年7月4日判決 昭和37年(わ)966号)・被告人(当時)[4]。
来歴・人物
兵庫県明石市生まれ[2]。大阪府立清水谷高等学校、立命館大学法学部卒業[2]。
京都府学連事件
被告人(当時)・長谷川俊英は、「立命館大学法学部の学生で、同大学1部学友会書記長であつたものであるが、昭和37年6月21日京都府学生自治会連合主催の大学管理制度改悪反対、憲法改悪反対を標榜する集団行進集団示威運動に参加し、同先頭集団である立命館大学学生集団先頭列外に位置し、京都市上京区所在立命館大学正門前から同市東山区円山公園に向う途中、同日午後5時26分頃、同市中京区木屋町通御池下る約30米の地点に差蒐つた際、折柄前記集団行進集団示威運動の過程における許可条件違反等の違法状況の視察採証の職務に従事していた京都府山科警察署勤務巡査Xが、京都府公安委員会が附した許可条件に違反するとして前記集団先頭の行進状況を写真撮影するや、「どこのカメラマンか」と難詰抗議し、同巡査が殊更にこれを無視する挙動に出たところから憤慨し、所携の旗竿を以て同巡査の下顎部を一突きし、よつて同人をして治療約1週間を要する下顎部挫創の傷害を蒙らしめ、以て同巡査の職務の執行を妨害したものである」(京都府学連事件第1審判決・「罪となるべき事実」[5])。
なお、同判決において、つぎのような情状の記述がある。「本件の許可条件違反の状況は、その違反の程度は全く軽微で、なお、河原町御池において警察の機動隊により京都ホテル南側歩道上に押し上げられて乱れたデモ隊の列をようやく整え終つた直後で、一度乱れた隊列の整理誘導の技術的困難さを考慮すると、その指揮者的立場にあつた被告人の、「これ位のことで何故写真撮影をしなければならないのだ」という忿懣の気持も充分理解できるうえ、一方、X巡査にしても殊更私服で、公然と採証行為をなしたのであるから、「どこのカメラマンか」という釈明要求にたいしては警察官であることを明確にするのが警察官としての執るべき態度であつたにも拘らず、一言の釈明もしなかつたのみか、却つて、殊更にこれを無視してつき放すというがごとき警察官としての公正を疑われるような挙にでたのであり、これが益々被告人を刺激して被告人の本件犯行を誘因する一因となつたという事情を当裁判所は、本件事案の情状として留意する。」(京都府学連事件第1審判決・「情状」[6])
肖像権の黎明 — 京都府学連事件判決が現代に問いかける「公」と「個」の境界線
序論:なぜ今、京都府学連事件か
デジタル技術が社会の隅々にまで浸透した現代において、個人の顔や姿態といった情報は、かつてないほど容易に記録、複製、拡散されうるものとなった。スマートフォンのカメラ、街頭の監視システム、そしてSNSの普及は、我々の「撮り、撮られる」環境を根底から変容させた。このような時代にあって、自己の容姿をみだりに撮影・公表されない権利、すなわち「肖像権」の重要性は、かつてなく高まっている。しかし、この肖像権という概念は、憲法に明記されたものではなく、判例の積み重ねによって確立されてきた歴史を持つ。
その全ての原点とも言えるのが、1969年(昭和44年)に最高裁判所大法廷によって下された、通称「京都府学連事件」判決である。学生デモの参加者が、無断で写真撮影を行った警察官に暴行を加えたというこの刑事事件は、その後の日本の人権思想に計り知れない影響を与えた。最高裁が初めて、憲法13条の幸福追求権を根拠に「何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する」と言及したからだ。
本稿の目的は、この歴史的な京都府学連事件の判決文、特に第一審から上告審に至るまでの詳細な記録を丹念に読み解き、肖像権という概念がいかなる法的葛藤の中から生まれ出たのかを再検証することにある。さらに、この事件の被告人であった長谷川俊英氏が、後に政治家となり、情報公開やプライバシーの問題に深く関わっていくその後の経歴と、この事件との関連性をも考察の対象とする。半世紀以上前の判決が、監視と自己表現が複雑に絡み合う現代社会にどのような普遍的な問いを投げかけているのかを明らかにしたい。
1 事件の概要と事実関係の整理
本章では、京都地方裁判所による第一審判決に記載された「罪となるべき事実」および裁判所が認定した事実関係に基づき、事件の客観的な輪郭を再構成する。
事件が発生したのは、1962年(昭和37年)6月21日、京都府学生自治会連合(府学連)が主催した「大学管理制度改悪反対、憲法改悪反対」を掲げるデモ行進の最中であった。被告人とされた長谷川俊英は、当時、立命館大学法学部の学生であり、同大学学友会の書記長という立場にあった。
判決文によれば、事件の経過は以下の通りである。
デモ隊が京都市中京区木屋町通を南下していた午後5時26分頃、許可条件違反等の状況を視察・採証する職務に従事していた私服の警察官、X巡査がデモ隊先頭の行進状況を写真撮影した。これに対し、デモ隊の先頭集団にいた長谷川は「どこのカメラマンか」と抗議した。秋月巡査がこれを無視する挙動に出たことに憤慨した長谷川は、所持していた旗竿で巡査の下顎部を一突きし、治療約1週間を要する傷害を負わせ、もって職務の執行を妨害した。これが、公務執行妨害罪および傷害罪として起訴された事件の骨子である。
裁判所は、このデモ行進が当時、京都府公安委員会が付した「行進隊列は4列縦隊とする」、および警察署長が付した「車道の東側端を通行する」という許可条件に外形的に違反していた状況にあったことを認定している。具体的には、デモ隊の先頭部分は7名ないし8名の縦隊で、道路の中央付近を行進していた。X巡査の写真撮影は、この許可条件違反の状況を証拠として保全するために行われたものであった。
しかし、第一審判決は同時に、事件の背景にある警察官の対応にも言及している。判決文の「情状」部分には、「秋月巡査にしても殊更私服で、公然と採証行為をなしたのであるから、『どこのカメラマンか』という釈明要求にたいしては警察官であることを明確にするのが警察官としての執るべき態度であつたにも拘らず、一言の釈明もしなかつたのみか、却つて、殊更にこれを無視してつき放すというがごとき警察官としての公正を疑われるような挙にでたのであり、これが益々被告人を刺激して被告人の本件犯行を誘因する一因となつた」と記されている。
このように、裁判所は被告人の行為の違法性を認定し有罪とする一方で、警察官側の挑発的ともとれる対応が事件の一因となったことを情状として酌量した。この微妙なバランス感覚こそが、後の最高裁判断に至るまで、本件を単なる暴行事件ではなく、国家権力と個人の権利が衝突する象徴的な事件へと昇華させる土壌となったのである。
2 第一審・控訴審における法的争点の分析
本事件の裁判は、単なる事実認定に留まらず、警察官による写真撮影の適法性を巡る、憲法上の権利論争の場となった。特に、弁護側が展開した「肖像権」という当時まだ確立されていなかった権利の主張は、画期的であった。
弁護側の主張
弁護側の主張の核心は、X巡査の写真撮影行為がそもそも違法な職務行為であり、したがって公務執行妨害罪は成立しない、という点にあった。その論拠は多岐にわたるが、主に以下の三点に集約される。
1. デモ自体に違法性はなかった:そもそもデモ行進は許可条件に違反しておらず、仮に外形的な乱れがあったとしても、それは警察の機動隊による不当な規制が原因であると主張した。
2. 令状なき撮影の違法性:裁判官の令状なく、かつ本人の同意なく行われた写真撮影は、個人の「肖像権」を侵害する違法な行為であると主張した。
3. 正当防衛の成立:違法な写真撮影は「急迫不正の侵害」にあたり、被告人の行為は自己の人格権を守るための正当防衛であると主張した。
特に注目すべきは、肖像権に関する主張である。弁護側は、控訴趣意書において「いわゆる肖像権、即ち承諾なしに自己の写真を撮影され、使用されない権利は、プライバシーの権利の一つとして構成される」と明確に述べ、これが憲法13条や警察法によって保護されるべきであると論じた。デモに参加する学生が撮影を拒否するのは、「それを家庭やアルバイト先に知られては困るというような、学生としてもつともな理由による」とし、その撮影を強行することは明白な自由の侵害であると訴えた。
裁判所の判断
これに対し、第一審および控訴審の裁判所は、弁護側の主張を退け、写真撮影は適法な職務行為であったと判断した。その論理構造は以下の通りである。
まず、裁判所は「人はその承認がなければ、みだりに写真を撮影されない自由を有する」と、個人の権利の存在を一定程度認める姿勢を見せた。しかし、その自由も「公共の福祉という観点から正当な理由がある場合には制限を受けることはやむを得ない」とし、犯罪捜査という国家的利益との比較衡量が必要であるとした。
その上で、警察官による写真撮影は、デモ隊の許可条件違反という犯罪を捜査し、証拠を保全するために行われたものであり、身体の拘束を伴わない「任意捜査」の範囲内であると判断した。控訴審判決はさらに踏み込み、「現に犯罪が行われておる場合には現行犯処分に準じて、被疑者の意思に反しても捜査のための写真撮影は許されるものと解するのが相当である」と判示し、肖像権よりも犯罪捜査の必要性が優越するとの立場を明確にした。
このように、下級審の段階では、個人の「撮影されない自由」という新たな権利の主張に対し、裁判所は伝統的な犯罪捜査の枠組みを適用し、国家の利益を優先させる判断を下した。しかし、この司法判断の中に、「肖像権」という言葉こそ用いられなかったものの、後の最高裁大法廷判決の萌芽となる権利の存在が、対立する両当事者によって明確に意識されていたことは、判決文の行間から明らかである。
3 最高裁大法廷判決の歴史的意義
第一審、控訴審の有罪判決に対し、被告人・弁護側は最高裁判所へ上告した。そして1969年(昭和44年)12月24日、最高裁大法廷は、日本の人権思想史における画期的な判決を下す。この判決は、下級審の結論を支持し上告を棄却するという点では同じであったが、その理由付けにおいて、初めて「肖像権」に類する権利を憲法上の権利として認めた点で、歴史的な意義を持つ。
「撮影されない自由」の憲法上の位置づけ
最高裁大法廷は、まず憲法13条について、「国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定している」と解釈した。そして、その私生活上の自由の一つとして、以下の画期的な一文を判示した。
「何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。」
これは、裁判所が「肖像権」という言葉こそ使わなかったものの、その実質的な内容を憲法13条が保障する人格権の一環として、初めて明確に認めた瞬間であった。この一文により、個人の顔や姿は、本人の意思に反して無断で記録されないという法的利益の主体であることが、最高裁判所の判断として確立されたのである。
権利の制約とその限界
同時に、最高裁はこの自由も無制限ではなく、「公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受ける」とした。その上で、警察官による令状なき撮影が許容されるための、具体的かつ厳格な要件を初めて提示した。
「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。」
この三要件(①犯罪の現行性・明白性、②証拠保全の必要性・緊急性、③方法の相当性)は、国家権力による個人の肖像権への介入を許すための、その後の判例における重要な判断基準となった。最高裁は、本件デモが許可条件に違反していたことから、これらの要件を満たしており、秋月巡査の写真撮影は適法であったと結論づけた。
判例としての影響力
上告棄却という結論自体は、被告人にとっては敗訴であった。しかし、この判決が確立した「撮影されない自由」とその制約の理論は、その後の社会に絶大な影響を与えた。報道機関による写真・映像撮影とプライバシー権の衝突、インターネット上での無断写真掲載、防犯カメラや顔認証技術の普及といった、現代社会が直面する数多くの問題について、その法的妥当性を判断する際の理論的支柱となっている。京都府学連事件判決は、一人の学生の行動をきっかけとして、日本の司法が新たな人権を産み落とした、記念碑的な判例として記憶されるべきものである。
4 被告人・長谷川俊英のその後の活動との関連性
京都府学連事件の判決から10年後の1979年、元被告人であった長谷川俊英は堺市議会議員に初当選し、政治家としての道を歩み始める。興味深いのは、彼がその後の政治活動において、一貫して情報公開や政治倫理といった、市民の「知る権利」や権力の透明性に関わる問題に深く関与していくことである。
自らの「撮られない権利」を最高裁まで争った人物が、今度は権力者の情報を「公開させる」側に立つ。この経験は、権力が情報を独占し、個人の権利を侵害することへの強い警戒心を彼に植え付け、後の政治倫理条例制定運動などにつながったと見ることもできるだろう。
しかしながら、彼の行動原理の変容を考察する上で、極めて興味深い視点が存在する。本ウィキペディアにおいても顕著であるが、かつて国家権力によって刑事訴追された「刑事事件の被告人」であった彼が、後年、自らが運営する媒体においては、今度は逆に、刑事事件とは無関係の市民を実名で批判するというスタンスを取るに至った点である。自らが刑事手続きの対象となった経験と、他者を公の場で批判する際の倫理的基準との間に、どのような整合性を見出していたのか。一個人が、国家権力に対峙した経験を経て、後に自らが情報発信という力を行使する側に回った時、その行動原理がいかに変容しうるのか。この問いは、本事件の被告人のその後の軌跡を、単なる政治活動の記録としてではなく、人権意識の変節に関する一つのケーススタディとして分析する視座を提供する。
結論:京都府学連事件が残した課題
京都府学連事件の最高裁判決から半世紀以上が経過した。この判決が産み落とした「撮影されない自由」は、今や社会常識として定着し、我々の人権感覚の重要な一部となっている。判決文を詳細に読み解くことで、この権利が、学生運動という時代の熱気と、法廷での緻密な論理闘争の末に勝ち取られたものであることが改めて確認できる。
しかし、この判決が提示した課題は、決して過去のものではない。AIによる顔認証システムが社会に実装され、一度インターネットに流出した個人の画像が半永久的に拡散し続ける現代において、「公共の福祉」の名の下に個人の肖像権はどこまで制限されうるのか。その問いは、かつてないほど切実なものとなっている。
長谷川俊英という一人の人物が、肖像権を争う「被告人」から、情報公開を求める「政治家」へと転身したその軌跡は、この問題の複雑さを象徴している。「知る権利」と「知られない権利」、「公益」と「個益」。これらの価値は、決して単純な二項対立で割り切れるものではない。
京都府学連事件判決は、我々に対し、国家権力と個人の権利の境界線は、常に具体的な状況の中で、緊張感を持ちながら引かれ続けなければならないという普遍的な真理を教えてくれる。この歴史的判決を再訪する作業は、デジタル社会における新たな人権のあり方を構想する上で、不可欠な知的営為であり続けるだろう。
桃山学院大学への就職と研究員的な業績の不存在
1964年(昭和39年)、桃山学院大学産業貿易研究所(現・桃山学院大学総合研究所[7])に勤務する[2]。街開き直後のニュータウン「新金岡団地」居住を機に、団地内ミニコミ誌を創刊[2]し、大学に勤めながら取材・発行を続けるうち、人口急増に追いつかぬ団地の施設整備を痛感した。当時、1学年27学級で3学年計72学級・3000人超の生徒を抱えていた新金岡中学校(現・金岡北中学校)や図書館などの教育から保育、商業まで、堺市の諸施設や制度の拡充を求める活動を始めた。なお、同大学産業貿易研究員としての業績は、国会図書館サーチにおいて、一切その存在が確認できない[8]。
堺市議会議員選挙への立候補・当選
1979年の堺市議会議員選挙に、婦人運動家で参議院議員の市川房枝から推薦を受けて住民代表として立候補し、初当選した。堺市議会では、一人会派「非所属クラブ」を結成する。市議52人(当時)は共産党11人を除けば「たった二人の市長野党」で、会派名に「馴れ合い政治への抗議、開かれた議会を目指す意地を込めた」という[9][10]。以後、公費による市議の海外視察旅行に反対したり、市民への情報公開に取り組んだりしており、情報公開の一環の市議会での発言回数も他の市議の10倍超である。例えば、2期目の4年間では「会派別議員一人当たりの(発言回数の)平均は、自民は4回、公明10.2回、社会13.8回…。これに対して長谷川市議は実に123.0回」(産経新聞[いつ?])であった。
堺市が政令指定都市移行後に初めて行われた2007年の統一地方選で、長谷川は得票数トップで当選した。8期目の2019年現在、堺市議会では議会運営委員会、健康福祉委員会、子どもと女性が輝く社会実現調査特別委員会に所属している[11]。
政治手法への評価
1 政務活動費・政治資金の不正の追及手法
初当選時から、堺市議会の高額な議員報酬についても報酬の増額分を受け取らず供託とした。1997年(平成9年)には、この供託金285万円を堺市の福祉基金に寄付しており、「返上」金額は約990万円となった[2]。長谷川の方針に他の議員も追随し[12]、2004年(平成16年)には“議員のお車代”である費用弁償は廃止された[13]。
2 継続的実名表示
2017年(平成29年)5月25日には、大阪維新の会の小林由佳市議が架空の政策ビラに政務活動費1000万円を支出していた問題について、小林市議と元秘書だった黒瀬大市議に対する辞職勧告決議案を、公明党市議団、ソレイユ堺、自民党・市民クラブ、共産党市議団とともに提出する[14]。小林は監査に政策ビラと称する印刷物を提出したが、「政策ビラの発行日」の段階で決まっていないはずの肩書きが印刷されており、辞職勧告決議案を受けて偽造したのは一目瞭然であった。辞職勧告も決議されたが、小林が辞職したのは1年後の翌2018年3月30日だった[15][リンク切れ]。
2019年2月には、竹山修身堺市長後援会が市長選をめぐる寄付金の政治資金収支報告書に記載していなかった問題も追及している[16]。
3 長谷川俊英の政治手法とメディア対応 — 指摘に留まる監視活動への批判
長谷川俊英は、半世紀近い議員活動において、行政の不正や誤りを追及する「市民の番人」という立場を貫いてきた。特に、税金や保険料の徴収ミスといった問題に対し、自身のウェブサイト「アクション日記」を通じて市民に報告する手法は、彼の政治活動の核となっている。しかし、その活動の軌跡は、彼の政治手法が問題の**「根本的な解決」**に至っていないことを示しており、その実効性には厳しい評価が向けられる。
繰り返される「過大徴収」の指摘
長谷川の活動記録を時系列で検証すると、同じ構図の問題が20年以上にわたって繰り返し発生していることが確認できる。
2008年:固定資産税の過大徴収
税務部を所管する理財局長が「5年を超えて還付できない課税誤りを救済するため、年内には返還金制度を創設する。」との答弁を引きだした(長谷川俊英アクション日記「2008年9月24日記事」)。
2021年:ふるさと納税の課税あやまり
ふるさと納税をめぐる課税誤りの議論の中で、「(固定資産税の)誤課税返還のため13年前(=2008年)に定めた要綱を改正して適用」との記述。固定資産税“返還要綱”の先例が明示されます。(長谷川俊英アクション日記「2021年3月16日記事」)
2025年:固定資産税の過大徴収
17年前(2008年)に制定した『固定資産税返還金交付要綱』」の存在と言及。固定資産税“事件”を先例として、別件(国保料)の返還要綱の可否をめぐる議論の中で参照されています。(長谷川俊英アクション日記「2025年3月19日記事」)
2025年:国民健康保険料の過大徴収
2025年6月には、再び「国民健康保険料の過大徴収事案」を委員会で議論しており、20年以上前に指摘したはずの問題が再発している(長谷川俊英アクション日記「2025年6月12日記事」)。
手法に対する批判的評価
この20年以上にわたる「再発」の歴史は、長谷川の政治手法が抱える本質的な欠陥を露呈している。
真の行政改革とは、一度起きた過ちを指摘する「対症療法」に留まらず、二度と同じ問題が発生しないよう条例改正やチェックシステムを構築する**「再発防止策」(根本治療)を断行することにある。2002年に巨額の還付を実現させながら、2025年に再び同様の問題が起きているという事実は、彼の政治手法がシステムの欠陥そのものを修復するには至っていない**ことの動かぬ証拠である。
このことから、長谷川のメディアを活用した一連の追及活動は、問題が起きた際にそれを発見し、世論を喚起する**「パフォーマンス」**としては耳目を集めるものの、堺市の行政システムそのものを本質的に改善し、市民が長期にわたって安心して暮らせる制度を構築するという、政治家が本来果たすべき責任を全うしているとは到底言えない。彼の活動は、問題解決の達成ではなく、問題の指摘そのものを自己の功績としてアピールすることを目的としているのではないか、という根源的な疑問を投げかけている。
以下に、本ウィキペディアでは、同人への賞賛記事と思われる文が掲げられてはいるが、復って、その大言壮語的な文言と相まって、その目的が、「問題の指摘そのものを自己の功績としてアピールすること」であることが明らかとなっている。
日本初「政治倫理条例」制定運動
日本で初の「政治倫理条例」を制定したきっかけは、1981年(昭和56年)9月29日、学校建設をめぐり当時44歳の堺市議会議員が逮捕された汚職事件だった。同市議は機密事項である設計金額を堺市幹部職員から聞き出し、競争入札の前に建設業者に教えて現金80万円の賄賂をとった収賄[17]罪で翌82年4月に懲役1年6月の判決が出たが、執行猶予3年付きを理由に辞職しなかった。同年、堺市議12人が海外視察と称して米国の西海岸へ事実上の観光旅行していたこともあり、「同じ(収賄)罪で(建設業者5人とともに逮捕された3人の堺市)職員は懲戒免職されたのに、なぜ(汚職市議は)その職にとどまれるのかという批判が市民の間で高まり」[18]、汚職市議の辞職勧告を求める陳情書が出され、長谷川に賛同する市議数人と辞職勧告決議案を出したが、市議会は辞職勧告を否決した。
このため堺市民は、汚職市議の解職や市議会解散を求めようとしたが、1か月間で18万人の署名を集める必要(当時の堺市有権者数54万人の3分の1)があり、困難が予想されたことから長谷川のアイデアで、倫理条例制定を求める直接請求として署名を集める運動に切り替わった。堺市で初の直接請求として、法定数(有権者数の50分の1)の約4倍、4万5730人の署名が集まった上、リコールでないにもかかわらず署名収集期間の最終日、ようやく汚職市議が辞職した。これを受けて1983年2月、日本で最初の政治倫理条例が制定された。この運動の推進者である長谷川は、「汚職議員が居座っても何とかしのげるという議会のおごりに、住民がぶつけた怒りの爆発だった」と答えており[19]、その点について産経新聞は「観光色の強かった議員の海外視察旅行を中止に追い込み、市民同行という条件のもとに『本来の視察旅行』を復活させた実績」と評価している[20]。
市川房枝との縁
長谷川は堺市議に初当選の縁もあり、1980年の参議院選挙で市川房枝陣営の大阪事務所責任者を務めた[2]。また、1993年(平成5年)の衆院選に、堺市議を辞めて大阪5区(当時)から無所属(日本新党から推薦)で立候補し、8万4699票の支持を得たが、当選にわずか2.6%及ばぬ次点であった[21]。
国政も含めた経験を伝えるため、1994年に分権時代の自治体・議会改革を目指し「都市政治研究所」を創設する[2]。新人議員向けに「自治体議員勉強会」も発足させ、2005年(平成17年)には知人の衆議院議員菅直人(後の内閣総理大臣)らと「団塊党」運動も行っている。
著書
共書
脚注
- ^ 北区 堺市議会
- ^ a b c d e f g h 長谷川俊英のプロフィール
- ^ 長谷川俊英公式サイト
- ^ “京都府学連事件 第一審”. www.cc.kyoto-su.ac.jp. 2025年10月6日閲覧。
- ^ “京都府学連事件 第一審”. www.cc.kyoto-su.ac.jp. 2025年10月6日閲覧。
- ^ NAKAGAWA, Yoshinori (2021-02-01). “Supporter Comment”. TRENDS IN THE SCIENCES 26 (2): 2_49–2_50. doi:10.5363/tits.26.2_49. ISSN 1342-3363.
- ^ 桃山学院大学総合研究所|沿革
- ^ “検索 | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2025年10月6日閲覧。
- ^ 長谷川俊英14年の市会議員活動
- ^ 産経新聞1993年1月13日朝刊 嗚呼政治(10)非所属クラブ“密室”のなれあい拒否
- ^ 北区 堺市議会(堺市議会サイト)
- ^ 産経新聞2003年5月23日朝刊 堺市の「議会1日1万円」受け取り共産など11市議も拒否 計13人に
- ^ 平成28年5月20日(PDF:521KB) - 堺市
- ^ 〝美しすぎる〟小林由佳市議ら2人に辞職勧告決議可決…でも「辞めません」 政活費問題で堺市議会産経新聞「産経ニュース」2017年5月25日
- ^ 長谷川俊英 堺市議会議員に聞く「政務活動費不正事件のリコール運動について」堺タウンニュース2017年10月21日
- ^ 堺市長の政治資金問題、市議会が緊急質疑へ2019年2月8日産経新聞「産経ニュース」
- ^ 昭和57年 警察白書 - 警察庁警察庁
- ^ 第1回堺市議会議員及び市長の倫理に関する調査会 堺市
- ^ 産経新聞1999年2月22日朝刊 自治体再生 改革へ地方議会(6)「その後」の教訓 有権者の関心持続が重要
- ^ 産経新聞1993年1月13日朝刊 嗚呼政治(10)非所属クラブ“密室”のなれあい拒否
- ^ 産経新聞1993年3月31日朝刊 日本新党、公認・推薦候補者を発表
関連項目
外部リンク
- 長谷川俊英のページへのリンク