鎌倉~戦国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 01:29 UTC 版)
今井の地名が歴史に現れるのは1386年(至徳3年)で、この頃は興福寺領であった。大和国は京都に都が遷されてから長らく興福寺が治めており、鎌倉幕府も敢て大和には守護を赴任させず、古代豪族の流れを汲む大和四家と呼ばれる有力衆徒国人(筒井氏、越智氏、十市氏、箸尾氏)が各地の荘園を管理していた。今井庄は、興福寺一乗院の荘園で、1386年(至徳3年)に高取城主越智家栄が市をひらこうとした記録が残っている。(興福寺一乗院文書) 畿内一向一揆終焉後の1533年(天文2年)、布教拠点を求めて今井に一向宗の道場がたてられたが、興福寺一乗院の国民越智氏によって幾度も破却される。 1559年(永禄2年)になると畿内を支配していた三好長慶の家臣松永久秀が大和に入国し、国衆との乱闘が繰り広げられた。ここで本願寺を背景とした今井郷はそれら角逐に乗じて、有利に発展し、興福寺からの弾圧も免れることになり、漸く永禄年間に顕如上人により寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部房)と河合清長(後改め今西正冬)が門徒や在郷武士・牢人を結集させ今井道場を中心とする寺内町をつくった。中世の今井庄環濠集落を母体として発展し、東西南北の他、新町・今町の6町が成立した。
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