鎌倉時代中期から末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 23:19 UTC 版)
4代泰盛は、時頼の嫡子北条時宗に年の離れた実妹(覚山尼)を養女(猶子)として嫁がせた。覚山尼は9代執権北条貞時を産み、泰盛は時宗の舅、貞時の外祖父として北条氏以外では最有力の御家人の一人となる。元寇に際して越訴奉行、恩賞奉行を務めた。『蒙古襲来絵詞』で、肥後国御家人竹崎季長が恩賞を求める訴えを聴く場面は、鎌倉・甘縄の安達邸を描いたものである。時宗死後の弘安徳政とよばれる幕政改革は彼が主導したといわれる。北条得宗家に仕える御内人の代表である内管領の平頼綱と対立し、弘安8年(1285年)の霜月騒動で頼綱の讒言により、執権となった貞時の命で討たれ、一族の多くが殺害された。 平頼綱が平禅門の乱で貞時に滅ぼされた後、泰盛の弟顕盛の孫にあたる安達時顕が秋田城介に補任され、安達泰宗の娘(覚海円成)が貞時に嫁いで14代執権北条高時を産み、再び北条得宗家外戚として長崎円喜らと共に幕政に関与した。幕府滅亡にあたり時顕は北条一門と共に東勝寺で自害した。時顕の子高景は北方に逃れて北条氏残党と共に反乱を起こしている。 暦応3年(1340年)に熱田神宮社領尾張国小舟津里を「城九郎直盛」が押領している記録があり、城九郎直盛は足利尊氏・直義の天龍寺供養に同席している。通称から見て安達氏の生き残りと見られる。
※この「鎌倉時代中期から末期」の解説は、「安達氏」の解説の一部です。
「鎌倉時代中期から末期」を含む「安達氏」の記事については、「安達氏」の概要を参照ください。
- 鎌倉時代中期から末期のページへのリンク