銀貨の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:42 UTC 版)
16世紀後期からは陶器や絹などの輸出品が銀と交換されて、中国に大量の銀の輸入が続いた。ポルトガルは倭銀と呼ばれる日本産の銀をマカオ経由で中国へ運び、スペインはアメリカ産の銀をマニラ経由で中国へ運んだ。こうした貿易は各地の商人を集め、福建商人(閩商)の他に日本、琉球、占城からも商人が参加した。明が海禁の政策を行なっている頃から牙行と呼ばれる仲買人の集団が活発となり、海禁が緩和されると、貿易や徴税の特権を得る牙行も現れた。 ポルトガルやスペインに続いて、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社も東アジアに進出した。日本では江戸幕府が朱印状で貿易を許可し、朱印状は日本を拠点とすれば国籍に関係なく発行されたので、中国人、ポルトガル人、スペイン人も受け取った。明は民間の富の蓄積を抑えるために銀の採掘を規制したが、スペインがマニラへ運んだ銀が5000トンほど中国へ持ち込まれ、貿易商人の豪華な生活が民衆の反発も招いた。中国からは福建商人(閩商)がルソン島に進出し、のちに鄭芝龍が福建商人の首領となり、子の鄭成功は台湾に進出した。スペインが運んだ銀貨は円形であり、貨幣単位の元(圓)の語源となる。 明の紙幣は金銀と兌換できず価値が下落したために、貿易で増加した銀が通貨として使われるようになった。商業の増加とともに銅は不足して、日本からの銅の輸入が重要となった。金銀の貨幣利用を禁止していた政府も民間の流れに沿い、銀による納税を認めた。明は一条鞭法という銀本位制を定め、銀と紙幣が普及して銅貨発行が衰えた。商業の拡大は農村にも及び、各地に市鎮と呼ばれる市場町が生まれた。また、個別分散的だった商人が集団を作るようになり、商幇(シャンバン)と呼ばれた。
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