避難か「残置」か?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/11 05:07 UTC 版)
1944年終わりに連合国軍がドイツ本土に接近すると、連合国遠征軍総司令部(SHAEF)は連合国側の収容者に関する措置を決めた。ノルウェー亡命政府のヨハン・コレン・クリスティ(Johan Koren Christie)少佐の9月23日付のメモでは、ノルウェー人収容者は「残置」し、進軍してくる連合国軍による開放を待つべきと記されていた。グロス・クロイツのグループは1カ月後にこの方針を知るとヨハン・ベルンハルト・ヨルト(Johan Bernhard Hjort)がこの提案とは相反する内容の報告書を書いた。ヨルトの異議というのは、収容者は殺される危機にありドイツが占領される前に救出されなければならないというものであった。 '"それ故にスウェーデン政府を説得して少なくとも刑務所に収容されている者も含めたドイツ国内にいるノルウェー人とデンマーク人収容者をスウェーデンに移送するための仲介をして、できれば戦争が終わるまで収容者をスウェーデンに逗留させることの可能性をノルウェー政府が考慮することを強く提案する。" 1944年10月のヨルトから提出された報告書がスウェーデンによるスカンジナビア人収容者の救出活動について初めて言及したものであったが、当初は好意的には受け取られなかった。収容者の救出活動はノルウェーの担当事項として認識されており、ノルウェー亡命政府は戦争末期になりスウェーデンが成果を出すと渋々その機会を与えた。 ストックホルム駐在の精力的な外交官ニールス・クリスティアン・ディトレフは、ロンドンのノルウェー亡命政府から出された実施要綱の受け取りを拒否してスウェーデンの有力者個人とスウェーデン外務省の双方にスウェーデンがスカンジナビア人収容者の救出を実施するように働きかけた。1944年9月にディトレフがフォルケ・ベルナドッテ伯に打診すると、ベルナドッテは計画について即座に了承した。11月30日にディトレフは「収容者救出のためのスウェーデンによる活動の必要性」と題したメモランダムをスウェーデン外務省に手交したが、これはまだディトレフの独断によるものであった。12月29日にノルウェー亡命政府はそれまでの立場を変え、ストックホルムの大使館にスカンジナビア人収容者を対象としたスウェーデンによる救出活動の可能性を協議するように指示を出した。 ディトレフがノルウェー亡命政府を説得する一方でデンマーク側は収容者を取り戻すためのドイツ側の許可を取り付けた。デンマークへ戻ってきた第1陣はブーヘンヴァルト強制収容所からのデンマーク人警察官で、輸送は12月5日に開始された。1945年2月末までに341名の収容者が輸送され、そのほとんどは疾病していた。この輸送によりデンマークは、後に「白バス」で活かされる有益な経験を得ることができた。
※この「避難か「残置」か?」の解説は、「白バス」の解説の一部です。
「避難か「残置」か?」を含む「白バス」の記事については、「白バス」の概要を参照ください。
- 避難か「残置」か?のページへのリンク