遺跡公園地区とは? わかりやすく解説

遺跡公園地区(スルタンアフメト地区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 23:48 UTC 版)

イスタンブール歴史地域」の記事における「遺跡公園地区(スルタンアフメト地区)」の解説

トプカプ宮殿 15世紀から19世紀までオスマン帝国の君主居住した宮殿。旧ビュザンティオン市のアクロポリスがあった旧市街半島先端の丘に位置するかつては宮殿取り囲む城壁傍らにアヤソフィア・モスクがあり、この地区帝国政治公的行事執り行われていた。数百年にわたって増築繰り返され宮殿建築が残る。 アヤソフィア 360年建設537年再建キリスト教大聖堂15世紀からのオスマン帝国時代にはモスク転用され、20世紀無宗教博物館変えられた。再建以来直径31mの大ドームモザイク画モスク時代に付け加えられた4本のミナレットはじめとするモスクとしての装飾が残る。 アト・メイダヌ 古代ローマ都市ビュザンティオン競馬場跡地現在の名前はトルコ語で「馬の広場」を意味し4世紀エジプトから持ち込まれ競馬場中心に据えられオベリスク現存する3世紀建設され東ローマ帝国時代には「パンとサーカス」を通じて皇帝コンスタンティノポリス市民触れ合い時に反乱の勃発地となる政治の場であったオスマン帝国時代には公園化され、イスラム教祝祭パレード用いられた。 スルタンアフメト・モスク 1616年アフメト1世建設させたモスクアヤソフィアの南隣、アト・メイダヌの東隣に位置し一帯地名、スルタンアフメトの由来となっている。6本のミナレット直径27.5mの大ドームをもち、数万イズニクタイルによって青く輝くことから「ブルー・モスク」の通称広く知られている地下宮殿 スルタンアフメト地区地下広がるローマ時代貯水池コリント式円柱支えられ広大な地下空間で、ヴァレンス水道橋通じて市街のはるか西の郊外水源地から引かれたくわえられた。円柱基部として、ビュザンティオン時代のものと思われるメデュサ巨像頭部使われていることでも有名である。

※この「遺跡公園地区(スルタンアフメト地区)」の解説は、「イスタンブール歴史地域」の解説の一部です。
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