遺物・記念碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:14 UTC 版)
「ガヴリロ・プリンツィプ」の記事における「遺物・記念碑」の解説
プリンツィプが使用した拳銃は押収され、フランツ・フェルディナントの血染めの軍服とともに大公の友人アントン・プンティガム司教に引き渡された。拳銃と軍服は長い間教会に保管されていたが、2004年にフランツ・フェルディナント夫妻が乗っていた車とともにウィーン軍事史博物館に貸与され、常設展示されている。また、フランツ・フェルディナントの首に命中した銃弾はチェコの博物館に保管されている。 生家は第一次世界大戦中に破壊されたが、戦後にユーゴスラビア王国が再建して博物館として開放された。しかし、1941年にユーゴスラビア王国はナチス・ドイツに占領され、生家はサラエヴォがクロアチア独立国の一部となった際に再び破壊された。その後、1944年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国によって博物館として再建され、これとは別にサラエヴォ市内にもプリンツィプを記念した博物館が建てられた。しかし、1990年代のユーゴスラビア紛争の際に再び破壊され、以後は再建されていない。 豊田穣の著書によると「彼が立っていた位置には、彼の靴の跡が刻まれ、その近くの建物の壁には彼の顔のレリーフが彫ってあり、その建物の中には、プリンシポフ記念館がある」と書かれているが、靴の跡はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際に破壊され、現在は記念碑だけがある。なお、この記念館のプレートは第二次世界大戦中に奪われてアドルフ・ヒトラーの誕生記念日の贈り物とされた。この簒奪は、ヒトラーにとっては、第一次世界大戦の敗北とドイツ帝国主義へのセルビア人の抵抗への報復の意味合いがあったという。
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