遺族の捜索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 23:55 UTC 版)
「佐伯敏子 (反核運動家)」の記事における「遺族の捜索」の解説
清掃活動を始めて約10年後の1970年(昭和45年)、供養塔地下の納骨堂を管理していた者が、佐伯を信頼して「供養塔の外だけでなく中も掃除してほしい」と堂の鍵を預け、佐伯は納骨堂への自由な出入りを許可されることになった。この納骨堂には、判明した死没者の氏名をまとめたノートが保管されていた。それらがまだ遺族に引き取られておらず、役所も多忙を理由としてその遺骨に何も対処していなかったことから、佐伯はそれらを遺族に引き渡すための活動を独力で開始した。佐伯の義父母と同様に、遺骨を遺族に引き渡すことが可能かもしれないと考えてのことだった。 このノートは外に持ち出すことができなかったため、まず薄暗い堂内で、懐中電灯の灯りだけを頼りに半年がかりで全8冊のノートに転写した。ノートに記載された手がかりは名前と被爆した町名などのわずかなものだったが、佐伯はこれのみを頼りに、古い地図を持ち出して該当の住所を1軒1軒訪ねたり、電話帳をめくりつつ市内の同じ姓の家庭に片っ端から電話を続けたりして遺族を捜し、遺骨の所在をつきとめていった。佐伯はこうした作業についてはまったくの素人であり、決して楽な作業ではなかった。 周囲の人々からは気味悪がられて遠ざけられ、何の得にもならないことと言って笑われることもあり、役所へ行けば変人扱いされて、多忙な職員たちの冷たい視線を浴びた。それでも、一介の主婦である佐伯のこの活動のみで、わずか半年で10人の遺骨が遺族に引き取られた。1973年(昭和48年)に納骨堂内にテレビカメラが入ったときには、カメラに向かって「○○さん! 住所はどこですか」と死没者の名前を訴え、偶然にもこの放送が遺族のもとに届き、遺骨が引き取られることもあった。遺族たちのもとへ足を運ぶための交通費は夫が負担し、普段から病気がちの母に代って家事を引き受ける子供たちの助力もあった。 やがて、佐伯により遺骨を引き取ることができた遺族が市の怠慢ぶりを責めたり、新聞記事で「市が行なうべきことを佐伯が独力でこなしている」と市を批難する記事が報じられたことで、1975年(昭和50年)、広島市が重い腰を上げ、納骨名簿を広島県内の全市町村に発送し、役場の掲示板で掲示を開始した。こうして佐伯の行動が市を動かしたことで多くの遺骨が遺族に引き取られ、約7万の遺骨の内、1955年時点で身元の判明していた約2,500の遺骨は、この1975年のみで約1,500人分にまで減る結果となった。市の活動開始と共に佐伯は納骨堂の鍵を市に返却したが、供養塔の外側の清掃はその後も続けていた。 なお前述のように病気に侵されて満身創痍のはずだった佐伯だが、この活動の頃には不思議なことに、病院の世話になることが一切なくなっていた。精神的な解放や癒しは、時に奇跡的に病気の進行を止めることがあるといわれていることから、佐伯の場合もそうした奇跡的なものとも見られている。
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