遠征の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/06 04:53 UTC 版)
「ニューファンドランド遠征 (1702年)」の記事における「遠征の背景」の解説
1701年にスペイン継承戦争が起こり、各国による交戦が始まっていたものの、イングランドはスペインに大規模な海軍の出動を考えていたため、翌年までは参戦しなかった。1702年の6月9日(ユリウス暦、フランスの日付はグレゴリオ暦による)、ニューファンドランドは、海軍卿であるカンバーランド公ジョージの最高顧問ジョージ・チャーチルの標的となっていた。 チャーチルはリークに「殿下に私から、お前のニューファンドランドの軍指揮官任命をお願いした。お前はあの地の総司令官だ」と告げ、リークは6月24日に正式に任命され、ニューファンドランドのフランスの兵力を調査すること、「港と海とで嫌がらせをすること」という2つの訓令が下った。また、それとは別に商船の護送をすること、イングランド入植地とそこの漁業について報告すること、そしてニューファンドランドでは、総督のようにふるまうことといった任務もまかされた。 7月22日、リークは、9隻の軍艦から成る艦隊を率いてプリマスを出港した。うち6隻は戦闘態勢が整っていた、その6隻とは、エクセター(1697)(en:exeter (1697))、アシスタンス (1650)(en:HMS Assistance (1650))、モンタギュ(1654)(en:HMS Montague (1654))、リッチフィールド(1695)(en:Lichfield (1695))、メッドウェー(1693)(en:Medway (1693))、リザーブ(1650)(en:HMS Reserve (1650))である。 ウィリアム王戦争中、ニューファンドランドは多くの戦闘が繰り広げられた。1696年の、ピエール・ル・モイン・ディベルヴィユ率いるフランスと先住民の軍は最も大々的で、破壊的な攻撃をした。この地域のイングランド植民地は殆ど壊滅状態となった。そのうちの多くはほどなく再建され、セントジョンズのイングランドの港は要塞化された。 ニューファンドランドの、フランスの恒久的な入植地は、どちらかといえば少ない方だった。トレパシー湾やサンマリー(セントメアリー)の入植地は、夏場に漁をする漁師たちが使うもので、彼らは、漁の時期が終わるとヨーロッパに戻って行った。中心となるプラセンシア(プレザンス)は恒久植民地で、要塞には駐屯兵がいた。1702年、その駐屯兵たちは、一時的にフィリップ・パストゥール・ド・コステベルの指揮下にあった。この人物は入植地の海軍の大佐で、次期ヌーベルフランス総督のダニエル・ドージェ・ド・スーベルカースの代理だった。(この総督は1703年まで着任しなかった)この地に定住しているフランスの入植者系住民は180人ほどであったため、1713年に植民地が廃棄されると、すべてが他の地へ移住して行った。 フランスは、ニューファンドランドのすぐ南にあるサンピエール島にも、小さな植民地を作っていた。そこはセントローレンス湾の外側に位置していた。1702年の7月に着任したばかりの、総督のセバスチャン・ル・グエは、数台の大砲を備えた木造の要塞をここに築いた。
※この「遠征の背景」の解説は、「ニューファンドランド遠征 (1702年)」の解説の一部です。
「遠征の背景」を含む「ニューファンドランド遠征 (1702年)」の記事については、「ニューファンドランド遠征 (1702年)」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から遠征の背景を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から遠征の背景を検索
- 遠征の背景のページへのリンク