過激派の教祖へ
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1967年助手試験に合格。博士課程を中退し、京都大学経済学部助手になる。同年、「ローザ・ルクセンブルクの社会主義運動論」を雑誌『思想』(岩波書店)に発表して、学界の注目を集める。 1968年、若手研究者として将来を嘱望される一方、京大闘争が始まると、助手の立場から参加。1968年からアルバイトとして難波予備校講師を兼任(~1972年)。この頃から「滝田修」のペンネームで積極的に論文を執筆するようになる。1969年、土本典昭のドキュメンタリー映画『パルチザン前史』に出演し、過激派の教組と目され、「日本のゲバラ」と呼ばれるに至る。1970年の三島由紀夫自決(三島事件)に際しては「われわれ左翼の思想的敗退だ。あそこまでからだをはる人間をわれわれは一人も持っていなかった。動転した」「70年代の闘争をやり抜くためには、新左翼の側にも何人もの"三島"をつくらねばならん」と発言し、パルチザンを組織して闘争を行うことを主張。当時、『週刊朝日』誌上で大橋巨泉と対談したこともある。その暴力革命論は全国の全共闘系学生に心情的影響を与えた。竹本に影響を受けた学生の中には同大学出身の奥平剛士や安田安之らがおり、2人は1972年にテルアビブ空港乱射事件を起こした。
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