過去の清算問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「過去の清算問題」の解説
エリツィンがバルト三国の独立を承認する声明を発した翌日の8月22日から、早くもエストニア政府は国内からソビエト勢力を一掃する作業に入った。連邦共産党は、エストニアの法によって登録されていない組織として非合法化され、族際運動もクーデターへの参加を理由に活動禁止処分を受けた。27日には連邦共産党(エストニア共産党反独立派)とコムソモールの資産が接収・国有化された。それまではリューテルすら立ち入りを許されなかったKGBの地下室も、その封印を解かれたが、重要な文書はすでに焼却された後であった。 翌1992年6月28日には国民投票(英語版)が実施され、その結果新たな憲法(英語版)が採択された。これによって、象徴的な大統領職と全101議席の一院制議会(リーギコグ)が導入され、最高会議とエストニア会議による議会並立状態は解消された。他方、9月の議会選挙(英語版)によって民族主義的なラール政権 (et) が成立すると、ロシア人に自動的な国籍付与は行わないとするその国籍政策や、未だ国内に駐留を続けるロシア連邦軍の存在も相まって、エストニア=ロシア関係(英語版)は急速に冷却した。その後、ロシア軍がエストニアから撤退を終えるには1994年8月30日を待たねばならなかった。 一方、ソ連編入に際してエストニアからロシアへ割譲されていたナルヴァ川東方およびペツェリ県に関しては、ソ連編入の違法性とタルトゥ条約の有効性を訴えるエストニア側が、タルトゥ条約に基づく1920年の国境線(ロシア語版)回復を要求した。対するロシア側は、エストニアは自発的にソ連へ加盟した、と主張して係争地の返還を拒否した。やがてエストニア側は領有権主張を放棄したが、さらなるロシア側の抵抗により、2021年に至ってなお国境条約は批准されていない(エストニアとロシアの領有権問題)。
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