軻比能の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:50 UTC 版)
軻比能はもともと鮮卑の中でも勢力のない部族の出身であったが、勇敢で裁きが公平であり、財物を貪ることがなかったため、人々は彼を推して大人に戴いた。建安年間、軻比能は閻柔を通じて、献げ物を奉った。漢の丞相曹操が西方に軍を動かし、関中を征すると、田銀が河間で叛旗を翻した。軻比能は3000余騎を引き連れ閻柔に従って田銀を攻め、これを打ち破った。のちに代郡の烏桓が反乱を起こすと、軻比能は今度は烏桓と力を合せて侵攻し、漢に損害を与えた。曹操は、鄢陵侯曹彰を驍騎将軍に任じて北に攻め込ませ、曹彰は軻比能を手ひどく打ち破った。軻比能は逃げて長城の外に出たが、のちにはまた使者を送り、献げ物をするようになった。 延康の初め(220年)、軻比能は使者を送って馬を献上し、文帝のほうでも軻比能に附義王の位を授けた。 黄初2年(221年)、軻比能は魏の者で鮮卑の中に逃げてきている者たち500余家を送り返して、代郡に移住させた。次の年、軻比能はその部族の大人や配下の者たち、代郡の烏桓の修武盧(しゅうぶろ)など3000余騎を引き連れ、牛や馬7万余頭を駆ってやってくると、魏との間に市場を開いて交易を行なった。また、魏の者1000余家を送り返して上谷に移住させた。そののち、東部鮮卑の素利や歩度根の配下の3部族が軻比能と争いを起こし、互いに攻撃をかけあった。護鮮卑校尉の田豫が調停をして、互いに侵伐することをやめさせた。 黄初5年(224年)、軻比能が再び素利に攻撃をかけると、田豫は軽装備の騎兵を率いて駆けつけ、背後から牽制した。軻比能は小さな部隊を選んでその隊長の瑣奴(さど)に田豫の攻撃を防がせたが、田豫は積極的に攻撃をかけて、瑣奴を敗走させた。このことがあって、軻比能は魏を信頼しなくなったが、輔国将軍の鮮于輔(せんうほ)のとりなしで両者は友好関係を結んだ。軻比能はさらに勢力を増し、部下からの信用も厚くなったが、かつての檀石槐には及ばなかった。 太和2年(228年)、田豫は通訳の夏舎を軻比能の娘婿の鬱築鞬(うつちくけん)の部族のもとに行かせたが、夏舎は鬱築鞬に殺された。その秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭と泄帰泥を率い長城を出て鬱築鞬を討ち、これをひどく打ち破った。その帰還の途上、馬城まで来たとき、軻比能が自ら3万騎を率いて田豫の軍を包囲し、その包囲は7日に及んだ。上谷太守の閻志は、閻柔の弟で、もともと鮮卑たちの信頼を受けていた。その閻志が行って諭したため、軻比能はすぐさま包囲を解いて引き揚げた。そののち、幽州刺史の王雄は、校尉の任を兼ね、恩賞と信義とでもって鮮卑たちを懐かせた。軻比能も、しばしば長城に入り、幽州の役所にやってきて献上物を捧げた。 青龍元年(233年)になると、軻比能は歩度根に誘いをかけて、并州の支配から抜け出させ、和親の約束を結ぶと、自ら1万騎を率いてその妻子眷族を陘北(けいほく)まで迎えに出た。并州刺史の畢軌(ひつき)は、将軍の蘇尚・董弼(とうひつ)らを送ってこれに攻撃をかけさせた。軻比能は自分の息子に騎兵を引き連れさせて派遣し、蘇尚らと楼煩(ろうはん)において会戦し、その戦闘中に蘇尚と董弼を殺害した。青龍3年(235年)になって、王雄は、勇猛の士の韓龍を送って軻比能を刺殺させると、代わってその弟を立てた。
※この「軻比能の登場」の解説は、「鮮卑」の解説の一部です。
「軻比能の登場」を含む「鮮卑」の記事については、「鮮卑」の概要を参照ください。
- 軻比能の登場のページへのリンク