豊後節の特徴
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豊後節「睦月連理椿(むつきれんりのたまつばき)」が出世作であり、最高傑作と言われている。創作された新作は少なく、豊後節の段物集「宮古路月下の梅(江戸版)」「宮古路窓の梅(大阪版)」に収録されている作品の多くは、義太夫節の世話浄瑠璃(近松門左衛門作)から道行部分を抜粋し豊後節になおしたものである。豊後掾の創作した作品には「寿の門松」「三度笠相合駕籠道行」「頼光四天王大江山道行」「与作小まん夢路の駒」などがあり、いずれも近松門左衛門が筆をとっている。 豊後節は一中節をことごとくやわらげたものであり、劇的というより情緒的で煽情的、セリフより美しい歌謡本位の行き方に主眼がおかれ、一中節よりもはるかに艶がある憐情たっぷりのものであった。一口に軟派の代表とされる豊後節ではあるが、宮古路豊後掾の豊後節と、高弟である文字太夫の豊後節とでは性質が異なり、前者は原作の俯瞰的な語り手の立場を主体とし、詞章(歌詞)に寄りかかって語っていたもので、後者は恋情を語るという点では前者と同じだが、複数の世界や趣向を絡めた複雑な筋立てとなっており、演出も派手であったという。この後者の「劇性の高さ」は歌舞伎伴奏に適したのちの常磐津節へとつながり、従来の豊後節の特徴であり宮古路豊後掾自身が目指した「感性に訴えるような曲節」を受け継いだのが新内節である。 当時の狂歌に『河東裃、外記袴、半田羽織に義太股引、豊後かはいや丸裸』と他流の愛好者が豊後節大弾圧を揶揄したものがあるが、これは却って、いかに豊後節が隆盛していたのかを示している。また、この様に言われたのは豊後節が常磐津節へと変貌しつつある段階のことは明らかなので、その隆盛に対する嫉妬の矛先は豊後掾ではなく宮古路文字太夫であったと推察できる。 享保7年(1722年)に、心中の流行を危惧した幕府により心中物(男女相対死)の上演が禁止された。それでも上方で人気を博し窮地を乗り越えることができたのは「語り口を工夫し、既成作品を活かす」といった豊後節(国太夫節・半中節)の特徴が挙げられる。
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