議論された国境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 16:02 UTC 版)
「アルーストック戦争」の記事における「議論された国境」の解説
アメリカ独立戦争を終わらせた1783年のパリ条約では、カナダ(イギリス領北アメリカ)とアメリカ合衆国との間の国境を明確に定めていなかった。独立戦争の後、マサチューセッツ州は州内のメイン地区に土地特許の発行を始めたが、これにはイギリスが依然として権利主張している土地が含まれていた。米英戦争(1812年-1815年)のとき、イギリスはワシントン郡、ハンコック郡およびペノブスコット郡の一部を含むメイン地区の東部の大半を8ヶ月間占領し、そこを恒久的にカナダに併合することを目指した。しかし、1814年の米英戦争を終わらせるガン条約により、国境は1783年のパリ条約に戻すことになったが、その曖昧さが残ったままだった。以前の条約で定義されている主要な地形的目印であるセントクロア川の水源を突き止め印を付けるために念入りな測量隊が派遣された。アメリカ合衆国の東部境界はノバスコシア植民地(当時のノバスコシアには現在のニューブランズウィック州が含まれていた)の北西角に当たる北の高地へ延びていた。水系がチプティクック湖を横切る場所に記念碑が置かれた。 1820年にメイン州がマサチューセッツ州から分離して州となったとき、国境の状態と場所が新しい州政府の主要な関心事項になった。マサチューセッツ州もまた、メイン州公有地の50%が論争のある領土の大部分を含んでおり、マサチューセッツ州の資産のままだったので、この問題に関心を持ち続けた。 1825年9月になって、メイン州とマサチューセッツ州の公共土地担当局が、セントジョン川とその支流の論争のある地域で、譲渡証書を発行し、木材伐採許可証を売却し、国勢調査を行い、誕生、死亡、および結婚を記録した。マサチューセッツ州の公共土地担当者ジョージ・コフィンは1825年秋に行った旅の間に日誌をつけており、その中でセントジョン川上流やマダワスカ地域からフレデリクトンに戻ってくるときに、雷によって森林火災が始まったと記していた。このミラミチ火災と呼ばれるようになるものは、ニューブランズウィックの重要な樹林数千エーカーを破壊し、開拓者数百人を殺し、さらに数千の者の家を失くさせ、幾つかの繁栄しつつあった社会を壊した。この日誌には、新しく指名されたニューブランズウィック州知事が破壊の程度を記録し、ニューブランズウィック州が生き残るためには西方の広大な森林(アメリカ合衆国と議論のある地域)に依存することになるとコメントしたことも記されていた。
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