議会の政治的地位の進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:58 UTC 版)
「宗教改革議会 (イングランド)」の記事における「議会の政治的地位の進展」の解説
イングランド教会を王権の支配下に置いたヘンリー8世とクロムウェルは更なる改革として、修道院解散と財産没収を目論んだ。修道院の財産を調査して教会財産査定録として纏め上げたクロムウェルは、1536年2月に第8会期が開かれた議会へ法案提出、小修道院解散法(英語版)として可決した議会は4月に解散した。修道院解散は議会解散後に進んだが同年から翌1537年まで発生した反乱(恩寵の巡礼)に政府は苦戦、解散が完了するのは次の議会で大修道院解散法(英語版)が可決した1539年から翌年の1540年である。 議会と協調しつつその反聖職者感情を宗教改革へと誘導したクロムウェルだが、時には反対派の活動を封じ込めるため議会に干渉したこともある。教皇庁離脱に抵抗し上告禁止法に反対する議員たちを呼び出して政治に関わらないことを約束させ、上告禁止法を成立させたこと、補欠選挙導入で政府支持の議員を増やしたこと、1536年と1539年に地方の選挙干渉を指示したことが挙げられる。 宗教改革議会にはいくつかの見方がある。クロムウェルの主導があったとはいえ、一連の立法でイングランドを独立した主権を持つ近代国家へと導く大事業を成し遂げた議会は、王が頼みとするほど政治の権威と地位を確立したという説があれば、庶民院・貴族院共に王に従順だが、時には王に反抗する場面もあり常に従順とはいえない点も挙げられている。また聖職貴族が修道院解散で数を減らし、世俗貴族も薔薇戦争で弱体化、代わって16世紀に誕生した新貴族を通じて王が貴族院を自己の陣営に引き寄せる一方、議会の会期が長引いたことで議会開会の度に選挙を行わず再召集する慣行が出来上がり、議会内の重心が貴族院から庶民院へ移動したという指摘もある。ヘンリー8世は議会を尊重して常に出席したり、議員たちと議論を重ねたり、1542年に議会に信頼を寄せる発言を残したが、彼以後の王たち(エドワード6世・メアリー1世・エリザベス1世)も議会を召集し政治に関わっていった。
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