議会の並立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:14 UTC 版)
1991年1月には、エストニア政府および最高会議が、ロシア共和国との間にゼロ・オプションでの国籍付与を相互に約束する二国間協定を結んだが、民族派はこれに反発した。2月には最高会議が、有権者登録と国籍申請を一体化させた法案を審議したが、未だ存在するソ連国籍(ロシア語版)の放棄を意味するこの法案にロシア人議員が反対したため、採択には至らなかった。その後も、最高会議周辺や人民戦線はゼロ・オプションに近い形での国籍問題解決を模索し、5月19日の政府プログラムでは、エストニア出身者に対しての国籍付与に加え、国内に十分長く居住する者の任意届出によって国籍を付与することが確認された。 他方、人民戦線と共産党との協力関係を感じ取った民族派は、1989年2月24日の独立記念日に際し、第一共和国との国家的連続性と、当時の国民を基盤とした独立回復の意思を明確にした。そして民族派は、ソ連による占領(1940年6月16日)以前からのエストニア国民とその直系子孫、そしてこの理念に共鳴する者に対する独自の「国民」登録を開始し、新たな議会「エストニア会議(エストニア語版)」を結成した。1990年2月24日から5日間に渡って行われたエストニア会議選挙の投票者数は59万1508人であり、直後に実施された最高会議選挙の有権者数および投票者数(116万5000人と91万1000人)と比較すると、民族派が「国民」と見做す範囲の狭さが窺える。 とはいえエストニア会議の側も常に一貫していたわけではなく、1990年5月25日の第2回大会では国籍取得に際する言語要件などの免除や、国籍申請者に対する新国会の選挙権の拡大などが決議されている。しかし、これら最高会議への歩み寄りも状況を見てのポーズに過ぎず、1991年8月の独立回復以降、ロシア人の歓心を買う必要のなくなったエストニア会議は国籍問題について一層態度を硬化させていった。
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