警察担当記者時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:33 UTC 版)
「ジェイコブ・リース」の記事における「警察担当記者時代」の解説
新聞社でのキャリアがうまくいかない中、隣人で『ニューヨーク・トリビューン』紙の地方記事編集者を務めていた人がいたので、なんとか使ってもらえることになった。1877年のことであった。低賃金ながらもリースは必死に働いた結果、警察本部詰に空席ができたため、警察担当記者を任された。これ故にリースは「記者(newspaperman)」というより「警察関係記者(police reporter)」とよばれることが多い。彼はロウアー・イースト・サイドのスラムの中心、マルベリー・ストリートの警察署の向かいに事務所を構え、イタリア系、中国系、ユダヤ系、アイルランド系移民や黒人の生活をつぶさに観察した。 警察担当記者を務める間、リースは街の中でも最も犯罪率が高く、貧しいスラムで働いた。彼自身の救貧院での経験や、スラムにおける貧しい人々の状況を目撃した経験を通して、彼らのために何かを変えようとリースは決心した。また1880年代半ばからはテネメントの問題についても定期的に報告するようになった。これら一つの結果として、1884年には市当局を促す形でスラム街の住環境を検討する「不良アパート問題委員会(Tenement-Hause Commission)」を発足させた。のちの著作『向こう半分の人々の暮らし』の執筆(後述)は、この委員会において着想を得たものである。 結局彼は『ニューヨーク・トリビューン』紙では1877年から1888年まで、そして1888年から1899年までは『イヴニング・サン』紙で、合計22年間警察担当記者を務めた。彼はこの仕事を「誰かにトラブルを意味するあらゆるニュース―殺人、火事、自殺、裁判沙汰になるような全ての事件―をあつめ処理する者」であると描写しており、事件のニュースが警察本部と警察担当記者のオフィスがあるマルベリー・ストリートに入ってくると、記者は警察本部だけでなく衛生局、消防局、検死所、税務署などを回って取材活動をしたという。リースの同僚であり、のちに代表的なマックレーカーとなったリンカーン・ステフェンズは、リースがユダヤ人の青年を助手に使ってリポートの収集・整理や書いた記事を本社に運ばせるなどしていたことを書き残している。
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