解散と青外人部隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 00:50 UTC 版)
結局、連合国とスペイン親英保守派(ローマ・カトリック教会および多くの当局関係者を含む)はフランコにドイツ東部戦線から部隊を引き上げるよう圧力をかけ始めていた。フランコは1943年春に交渉を開始、10月10日、撤退するよう命令した。 一部のスペイン将兵は帰国を拒否した。何人かの人々は彼らが1,500名以下で、フランコが非公式にこれを認めたと考えているが、いずれにせよ、11月3日、スペイン政府は全ての部隊にスペインへの帰国を命令した。結局「非復員者」の合計は3,000名(多くがファランヘ党員)近くが残ることとなった。スペイン将兵はドイツ軍(主に武装親衛隊)に加わり、新たな義勇兵はルルド近辺でスペイン国境を越え、ドイツに占領されたフランスへ移動した。新たな部隊は青外人部隊(Legión Azul)と呼ばれていた。 スペイン軍は最初、第121歩兵師団の一員となっていたが、1944年3月、帰国するよう命令され、3月21日、スペインへ移動した。残存した義勇兵はドイツ軍に吸収された。 スペイン人で編成された小隊は第3山岳師団、第357歩兵師団へ配属された。部隊のうち、ひとつはラトビアに派遣され、別の2個中隊はチトー率いるパルチザンと戦うためにユーゴスラビアにおいてブランデンブルク連隊とドイツ第121師団に配属された。50人のスペイン人ファシストはフランスレジスタンスと戦うためにフランスのピレネー山脈に入ったが、そのうち幾人かは元共和国派の共産主義者であった。 第101スペイン中隊(第101SS義勇兵中隊)の140名は第28SS義勇擲弾兵師団 ヴァロニェン(ワロン第1)に配属され、ポメラニア、ブランデンブルクで戦った。後に第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラントの一部として、ミゲル・アレチェ(en)親衛隊大尉の指揮下で、ソビエト赤軍とのベルリンにおける戦いで最期の日まで戦った。 青師団およびその後の部隊における犠牲者は戦死4,954名、負傷8,700名であった。青師団ないし第101SSスペイン義勇中隊に参加した372名はソビエト赤軍の捕虜として連行された。1954年4月2日に国際赤十字によって派遣された帰還船セミラミス(Semiramis)号で生存していた286名が帰国した。 青師団の将兵が受けた勲章は以下の通りである。 2個 - 騎士十字章(1つは柏葉付) 2個 – ドイツ十字章金章 138個 - 一級鉄十字章 2,359個 - 二級鉄十字章 2,216個 – 戦功十字章(剣付)
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