解散とメンバーのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/28 00:59 UTC 版)
「ブラインド・フェイス」の記事における「解散とメンバーのその後」の解説
ツアーが8月に終わった後、イギリスに戻った彼らにはイギリスツアーを行うオファーもあったが、結局10月までにバンドは事実上の解散を迎え、ブラインド・フェイスの活動は半年にも満たないということになった。バンドが残したアルバムは1枚のみであったが、いくつかのライブテイクはウィンウッドの1995年のアルバム『The Finer Things』に収められた。 その後クラプトンはスポットライトから外れ、初めはプラスティック・オノ・バンドに参加、続いてデラニー&ボニー&フレンズのサイドマンとしてツアーに参加した。彼は自らをクリーム、ブラインド・フェイスを解散させた疫病神と思い込んでいたが、これらの活動が彼を癒すこととなった。サイドマンとしての役割の後、彼はデラニー&ボニーのメンバー数名と共に新たなスーパーグループ、デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成した。クラプトンはブラインド・フェイスのレパートリーを排除せず、「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「マイ・ウェイ・ホーム」と言った曲はその後のソロ活動でも演奏されている。 クラプトンと異なり、ジンジャー・ベイカーはブラインド・フェイスでの経験を楽しみ、グレッチやウィンウッドと共にジンジャー・ベイカーズ・エアフォースを結成した。共に何度かステージに上った後、ウィンウッドはグレッチと共に脱退、アイランド・レコードに戻ってトラフィックを再結成した。グレッチはアルバム『ザ・ロウ・スパーク・オブ・ザ・ハイヒールド・ボーイズ』『ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン』にベースで参加した。ウィンウッドはその後もソロ経歴を積み重ねたが、グレッチは様々なグループに参加した後、1990年に脳内出血で死去した。 クラプトンとウィンウッドは2000年に映画『ブルース・ブラザース2000』に「ルイジアナ・ゲーター・ボーイズ」のメンバーとして出演した。 クラプトンとウィンウッドは後にブラインド・フェイス時代の活動を肯定的に捉え、そのレパートリーをステージで演奏したり、様々なアルバムに収録している。
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