観光資源としての『伊豆の踊子』
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「伊豆の踊子」の記事における「観光資源としての『伊豆の踊子』」の解説
浄蓮の滝から本谷川に沿って登り、旧天城トンネルを抜けて、河津川に沿って下るルートは「踊子歩道」として整備されている。「踊子歩道」は2002年に遊歩百選に選定された。 本谷川(狩野川)沿いに杉やブナが繁る林の旧街道をしばらく歩くと踊子橋を過ぎたあたりのわさび沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端の毛筆書きによる〈道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。…〉という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製のレリーフも設置されている。この文学碑は、1981年(昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた。 そこから天城トンネルを抜け河津川沿いの道を下っていくとある湯ヶ野温泉の旅館「福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の1965年(昭和40年)11月12日に建立された。碑には川端の直筆で、〈湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。…〉の一節が刻まれており、旅館の入口にはブロンズの踊子像もある。 川端は、この「福田屋」側の文学碑の除幕式で、作中に登場する受験生〈少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している 機関室の前の狭い部屋で、いろんな話をしました。旅芸人の話が印象的でした。空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当のノリ巻きをすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「下宿が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、イレズミをした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。 — 後藤孟「談話」(『実録 川端康成』) 初景滝そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、道の駅天城越えには文学博物館(昭和の森会館)がある。 1981年(昭和56年)10月1日より、国鉄(1987年4月1日以降JR東日本)伊豆急行・伊豆箱根鉄道直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が公募により充てられた。また、東海自動車(1999年4月1日以降は中伊豆東海バス)のボンネットバスの愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。
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