観光資源としての『伊豆の踊子』とは? わかりやすく解説

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観光資源としての『伊豆の踊子』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 08:33 UTC 版)

伊豆の踊子」の記事における「観光資源としての『伊豆の踊子』」の解説

浄蓮の滝から本谷川沿って登り旧天城トンネル抜けて河津川沿って下るルートは「踊子歩道」として整備されている。「踊子歩道」は2002年遊歩百選選定された。 本谷川狩野川)沿いにブナ繁る旧街道をしばらく歩くと踊子過ぎたあたりのわさび沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端毛筆書きによる〈道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚密林白く染めながら、すさまじ早さで麓から私を追つて来た。…〉という作品冒頭部分刻まれており、左側碑面川端銅版製のレリーフ設置されている。この文学碑は、1981年昭和56年5月1日建てられ除幕式が行われた。 そこから天城トンネル抜け河津川沿いの道を下っていくとある湯ヶ野温泉旅館福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の1965年昭和40年11月12日建立された。碑には川端直筆で、〈湯ヶ野までは河津川渓谷沿う三里余り下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。…〉の一節刻まれており、旅館入口にはブロンズ踊子像もある。 川端は、この「福田屋」側の文学碑除幕式で、作中登場する受験生少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した後藤孟は「賀茂丸」で川端会った当時のことを以下のように述懐している 機関室の前の狭い部屋で、いろんな話をしました旅芸人の話が印象的でした空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当ノリ巻きすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「下宿が見つからなかったら相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろ行こう」と誘った熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、イレズミをした若い衆五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず平然としていました。 — 後藤孟「談話」(『実録 川端康成』) 初景滝そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、道の駅天城越えには文学博物館昭和の森会館)がある。 1981年昭和56年10月1日より、国鉄1987年4月1日以降JR東日本伊豆急行伊豆箱根鉄道直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が公募により充てられた。また、東海自動車1999年4月1日以降中伊豆東海バス)のボンネットバス愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。

※この「観光資源としての『伊豆の踊子』」の解説は、「伊豆の踊子」の解説の一部です。
「観光資源としての『伊豆の踊子』」を含む「伊豆の踊子」の記事については、「伊豆の踊子」の概要を参照ください。

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