西ローマ帝国におけるロムルスアウグストゥルスの廃位とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 西ローマ帝国におけるロムルスアウグストゥルスの廃位の意味・解説 

西ローマ帝国におけるロムルス・アウグストゥルスの廃位(476年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 03:01 UTC 版)

ゼノン (東ローマ皇帝)」の記事における「西ローマ帝国におけるロムルス・アウグストゥルスの廃位(476年)」の解説

476年イタリア本土においてローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス廃位された。レオ1世474年姻戚ユリウス・ネポス西ローマ皇帝を名乗らせてイタリア本土へ送り込んでいたが、結局はネポスイタリア本土人々上手く押し付けることができず、ユリウス・ネポス475年西ローマ帝国軍司令官オレステスによって追放され代わりにオレステス息子ロムルス・アウグストゥルスローマ皇帝として宣言されていた。しかしゼノンロムルス・アウグストゥルス正当な西方正帝とは認識していなかったし、イタリア追放されユリウス・ネポス逃亡先のダルマティア依然として西ローマ皇帝名乗り続けていたので、コンスタンティノープル宮廷から見ればロムルス・アウグストゥルス廃位正当な行為だった。 同年中に首都ローマ元老院からゼノンのもとへ「もはや西方担当皇帝は必要ではない」とする元老院決議が、西ローマ皇帝帝冠紫衣とともに届けられた。ゼノンロムルス・アウグストゥルス廃位功績のあったスキリア族将軍オドアケル報奨としてパトリキ地位およびローマ皇帝代官としてイタリア本土統治する法的権限与えた使者との会見にはダルマティア西ローマ皇帝名乗っていたユリウス・ネポス同席していたので、ゼノンユリウス・ネポスの顔も立ててユリウス・ネポス西ローマ皇帝として受け入れてはどうかと提案した元老院ゼノン提案反対したが、オドアケル妥協してゼノン提案受け入れたオドアケルユリウス・ネポスへの忠誠の証として新たに発行した金貨ユリウス・ネポスの名前と肖像刻印したが、結局はユリウス・ネポスイタリア本土へ迎え入れようとはしなかった。480年にはユリウス・ネポス何者かによって殺害されたため、東方担当皇帝であるゼノンローマ帝国唯一の皇帝となったオドアケルゼノンのためにユリウス・ネポス没後ダルマティア混乱回復しヴァンダル王国の王ガイセリック交渉してシチリア島一部西ローマ帝国返還させ、487年にはイタリアへ侵入したルギー族(英語版)の王ファワ(英語版)を降伏させて連れ去られていたローマ市民取り戻した。こうしてゼノンオドアケル少なくとも488年まで良好な関係を築いた

※この「西ローマ帝国におけるロムルス・アウグストゥルスの廃位(476年)」の解説は、「ゼノン (東ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「西ローマ帝国におけるロムルス・アウグストゥルスの廃位(476年)」を含む「ゼノン (東ローマ皇帝)」の記事については、「ゼノン (東ローマ皇帝)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西ローマ帝国におけるロムルスアウグストゥルスの廃位」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

西ローマ帝国におけるロムルスアウグストゥルスの廃位のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西ローマ帝国におけるロムルスアウグストゥルスの廃位のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのゼノン (東ローマ皇帝) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS