表業と無表業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 02:04 UTC 版)
説一切有部は、身業と語業には表(ひょう)と無表(むひょう)(梵: avijñapti、アヴィジュニャプティ)とがあるとし、これらは表業(ひょうごう)(梵: vijñapti-karman、ヴィジュニャプティ・カルマン)と無表業(むひょうごう)(梵: avijñapti-karman、アヴィジュニャプティ・カルマン)ともいわれる。表業は、「知らしめる行為」、外に表現されて他人に示すことができるもの、行為者の外面に現われ他から認知されるような行為を意味する。無表業は、他人に示すことのできないもの、善悪の業によって発得される悪と善を防止する功能(習性)、行為者の内面に潜み他から認知されないような行為を意味する。また、無表業は無表色(むひょうしき、梵: avijñapti-rūpa)ともいう。 阿毘達磨倶舎論において、業を起こした時の心が善心ならそれと異なる不善あるいは無記の心を乱心といい、業を起こした時の心が不善心ならそれと異なる善あるいは無記の心を乱心という。また、無想定や滅尽定に入って心の生起が全くなくなった状態を無心という。この上で無表色は、 阿毘達磨倶舎論 の分別界品第一においては、これらの「乱心と無心等(この2つに不乱心および有心を含めた4つを四心という。著者の世親はこれによって全ての心の状態を示し得たと考えている。)の者にも随流(法が連続生起して絶えない流れをなすこと。なお、随流は相続(梵: pravāha)ともいう。)であって、浄や不浄にして、大種(四大種)によってあるもの」と定義されている。分別界品第一の定義は四分随流ともいう。なお、無表色は四大種の所造であるが極微の所成ではない。また、法処、法界に属しながら色法であり、五根の対象とはならず、ただ意根の対象である。 無表業とは、説一切有部の伝統的解釈によれば「悪もしくは善の行為を妨げる習性」で、具体的には律儀、不律儀、非律儀不律儀の三種であり(これは阿毘達磨倶舎論の分別業品第四の所説であり、この所説が無表業全体を解明しているという考え方がある 。)、いわゆる「戒体」と同じものである。また、無表色は身無表と語無表の二種に分けられ、殺生、偸盗、邪淫の三つの身業と妄語、綺語、離間語、悪口の四つの語業を合わせた七支に関わるものである。明治大正期より、近代仏教学者によって経部の種子説との混同や、大乗仏教の立場から有部の無表業を誤謬として規定したり、「仏教元来の無表」を想定することによって、無表色を「業の結果を生ぜしめるもの」とする理解が流行したが、文献学的に論証されたものではなく、根拠に乏しい。 身表と身無表、語表と語無表の四つに意業を加えて五業という。
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